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海外作品の上演

野田 アンケートで票を集めた海外からの招聘作品には、先ほど話題になったパリ市立劇場の『犀』にくわえて、ピーター・ブルック『Battlefield』(11月)、ルーマニア国立劇場ラドゥ・スタンカ(シビウ)『ガリバー旅行記』(シルビウ・プルカレーテ演出、10月)があがっています。

 それからアンジェリカ・リデル『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』(F/T、11月)。これはとても印象に残っています。ただ、日本の状況からくる演劇的関心と、ヨーロッパのそれとは大分離れてしまったかもしれないという気もします。ベルリン演劇祭に行ってきたのですが、ヨーロッパの2015年というのは難民問題で紛糾していて、舞台作品もそういうのばかりといって良いくらいでした。難民問題を反映している作品が評価を集めていたし、また刺激的な作品も多かった。ヨーロッパではもはや自分の国だけを考えてもしょうがない、ヨーロッパ全体を考えないとしょうがないという傾向が舞台作品からも感じられました。
 ベルリン演劇祭で観たものの中ではヤエル・ロネン――彼女の作品は日本でも『第三世代』が中津留演出でリーディング公演されています(12年)――が書いた『コモン・グラウンド』、これはユーゴスラビアの戦争を経験した世代、その子供の世代、そして移民を受け入れる側だったベルリンの人たちを扱っているんですが、この「第三の視点」というのを取り入れるのがロネンの特徴なんです。紛争に直接関係していない人たちがどうアプローチするかが、そこでは取り上げられています。これは重要な視点だと思いました。
 あと、ベルリン演劇祭の枠外での公演でしたが、リミニ・プロトコル『ヨーロッパお宅訪問』という作品を上演していて、これはベルリン市内の一般の人の家を借りるんですね。そこには大きなヨーロッパの地図があって、観客自身のバックグラウンドを話す、観客参加型の作品です。ただ私が参加したのはドイツ語版ではなく英語版なので、ドイツ語ができない、英語しかできないという移民や観光客の人が多いグループになる。そのため、『ヨーロッパお宅訪問』では最終的にヨーロッパについてみんなで考えるというのが趣旨なのですが、ヨーロッパの外から来た人たちが「これからヨーロッパどうしよう」と考えている(笑)。最後に「国境を一つ消せるとしたらどうしますか」という質問があって、客達が「全部消したい」といって国境を塗りつぶしていくんですが、塗りつぶそうとすればするほど国境は濃くなっていく。それで「やっぱり駄目だ、消えないわ」という雰囲気が流れるんです。それは結局自分たちの中でも国境は消せない、ベルリンにいても、あくまで外部から来た人間とみなされてしまうのだということでもある。そういう作品がベルリンでは今ヴィヴィッドな舞台として受けとめられているなという感触でした。

野田 海外の作品の日本語上演として印象に残っているのは名取事務所『ベルリンの東』(ハナ・モスコビッチ作、小笠原響・演出、2月)なのですが、こちらは逆にアルゼンチンに亡命したナチスの残党の第二世代が、自分たちの記憶ではないはずの記憶を背負っていく姿を描いています。それからシーエイティプロデュース『スポーケンの左手』(マーティン・マクドナー・作、小川絵梨子・演出、11月)も演技がソリッドで良かった。中嶋しゅう演じる男が、自分の亡くなった左手を探し回っている。そのためには悪逆非道なことも辞さない。それがどういうわけか最後に不思議な和解感を醸し出して終わるんですね。作者のマクドナーのうまいタッチです。

高橋 この舞台はとてもおもしろかった。中嶋しゅうが出てくるだけでうれしくなっちゃう。演出の小川絵梨子とも馬が合っている感じで。

小山内 失くした左手を探すことに異常な執着を示す主人公の狂気を中嶋は好演しました。彼をだましてお金を取ろうとする若いチンピラの男女(岡本健一、蒼井優)もよかったのですが、この愚かな二人の犯罪者は、主人公の執念の前に、まだまともに見えてくる。その上、成河(ソンハ)演じるホテルのフロント係がおもしろくて、火に油を注ぐような言動ばかりを取るんですね。予定調和をはぐらかす構造がおもしろい。

野田 ああいうちょっと異常な性格の役をやらせると、成河は上手いですね。

 

ダンス

野田 ここで少しダンスの方に話を向けてみましょう。

坂口 ダンスでは直接「戦後70年」を扱うことはなかったのですが、日本がアジアでしてきたことにかんがみれば、アジアとの関係の修復という意味でアジア圏――韓国、台湾、中国、シンガポール、マレーシア等々――のダンサーや振付家との交流の企画が増えてきています。
 ストアハウスで1月に上演された、マレーシアの小さなダンス・カンパニー、DPACダンス・カンパニー『WExplode』(Wong Jyh Shyong演出)がとても新鮮でした。もうひとつは、Nibrollの矢内原美邦さんが、台北、シドニー、香港、ソウル等から10組くらい招いて行った企画『ダンス・イン・アジア』がありました(7月)。日本のダンスでは見られないような動き、構成、物語性などが見られました。
 日本のダンスの場合、戦後にアジアとは距離ができてしまっていて、失われたコミュニケーションを取り戻すことがなかなかできずにいたようです。演劇とは違ってダンスは言葉がないのでもっとつながりができてもいいはずなのですが。そういう一種の鎖国のような状態になっていたのが、ようやく最近積極的に繋がりが広がり始めて、おもしろくなってきました。

野田 ARIKA+山崎広太『Ne ANTA』(11月)は、ベケットの『ねえジョウ』をもじって『Ne ANTA』(ねえ、あんた)と題したダンス作品でした。後ろの壁がすごくゆっくりと前に押してきて、ベッドにひとりで座っているジョウ役の山崎広太のスペースがどんどん狭くなっていく。その中で、本当ならばテレビカメラの中で動ずにきょろきょろしているだけのはずのジョウのダンスを山崎がみせるわけです。原作ではジョウに対して、彼の「最後の女」の声が降ってくるという構造で、それがいったい自分の頭の中から聞こえてくる声なのか、外から聞こえてくる声なのかわからなくなってジョウが戸惑うのですが、それをあえてダンサーの身体で動かすんですね。

坂口 ベケットといえば、勅使川原三郎『ゴドーを待ちながら』(12月)もありました。

野田 勅使川原は『ハムレット』(10月)もやっていますよね。そのような、台詞劇をダンスに直していくという動きが結構ある。

高橋 彼が最近やっている一連の作品の評価はどうなんですか。

坂口 ダンス評論家の中では評価は高いですね。『ハムレット』に関して言えば、物語を全部語るわけではなくて、勅使川原が重要だと思ったシーンの印象を提示する様な舞台を作っていますね。『ゴドー』も同様です。

高橋 以前の勅使川原の作品は、ちゃんと物語がある気がしたんです。ダンスの中で色々なストーリーがあって、美術も華やかだったのですが、最近の作品はエッセイのようなもので、極めて批評しにくいというか、わかりにくいところがありますね。

坂口 物語を受け止めて、そこから出てくる動きを見せようとするだけで、物語でわからせようとする気はさらさらないのだと思います。勅使川原ですからプロとしてのダンスの見せ方は当然できるのですが、それをあえてやりませんし、かといって演劇の方にも行かない。ならばどういう道を進もうとしているのか・・・・・・。2年ほど前から、彼はそうした実験的な試みをしているのだと思います。
 それから、先ほどの寺山修司との関係で言うと、ピナ・バウシュのカンパニーの一人のファビアン・プリオヴィルが作った『SOMAプロジェクト』(8月、あうるすぽっと)に蘭妖子が出ていました。蘭妖子が体現していたと言われる天井桟敷的アングラ身体がドイツのダンサーに軽々と持ち上げられて、クルクルと回されてしまうんです。それがとても印象的でした。語りもありダンスもありで、ドイツと日本のメンバーがかなり時間を掛けて作った作品のようです。ピナ・バウシュのメソッドは、それぞれのダンサーの生き方に結びついた身体を引き出してダンスへと昇華させるのですが、それを蘭がやってみせたのが驚きでした。

野田 川口隆夫『大野一雄について』(11月)にも票が入っていますが、これはどうでしょう。大野一雄の完コピをうたった舞台ですね。

坂口 14年に初演した作品を京都で再演したものですが、だいぶ変わってきたようです。大野の舞踏というのも無茶苦茶なことをやっていたわけではなくて、もともとはモダンダンスから出て来たという出自があること、それを川口が受け止めて、大野の可能性を広げようとしているところがおもしろいところです。大野一雄はこんなに動いていたのかということも驚きだったのですが、一年二年とやっているうちに、川口が自分の動きをつけ加えてきたように見えて、もはや川口にとってこの作品は自分のものとなりつつあるようです。

 

ミュージカル

野田 ミュージカルでは?

小山内 去年は訳詞の改革が最大の成果ですね。英語は音節あたりの情報量が日本語より多くて、日本語ではなかなか訳しきれないし、下手な訳詞を当てはめるとメロディーが異なって聞こえてしまうという課題がずっとあったんですが、去年はそれを克服する動きが出てきた。ひとつは、高橋知伽江『ショウボート』(3月)と『アラジン』(5月)の訳詞。もうひとつは、市川洋二郎新版『タイタニック』(3月)の訳詞です。これが非常に優れていて、逐語訳というよりは意訳に近いのですが、原曲のニュアンスを生かした日本語になっているんですね。オリジナル版の音楽を聴いているのとあまり遜色がなくメロディーの良さが伝わってくる。『レ・ミゼラブル』の岩谷時子の訳は名訳とされていますけれど、それでも原曲と聴き比べてみると、メロディーのニュアンスが違ったり、日本語として変だったりするところが多少あるんですね。それに対して高橋知伽江と市川洋二郎の訳は、全体として意味がちゃんと伝わるし、音楽としても同じ曲に聞こえる。非常に大きな成果だと思います。

野田 歌詞というのは難しいですよね。『アナと雪の女王』の「ありのままで (Let It Go)」にしても、英語だったら「レリゴー、レリゴー」と二回繰り返せるのに、日本語では「ありのぉ~、ままでぇ~」といわなくてはいけない。落としどころが探りづらいのが歌詞だと思うんですね。

小山内 高橋の訳詞はテーマ的に抽象化しているんです。たとえば、『アラジン』のテーマソング A Whole New World のサビは、たしかアニメ版では「大空」と訳したと思いますが、高橋は「自由よ」と訳しているんですね。これはテーマ曲なんだからテーマのキーワードを入れてしまえ、との割り切った訳です。

高橋 それから宝塚が農民一揆の作品を上演していましたね。雪組公演『星逢一夜/La Esmeralda』(7月)。レビューなんですけれども、宝塚でこういうものをやるのかと驚いて、まあテーマ的に宝塚としては珍しいということだけなのかもしれませんけれども、ミュージカルの幅が拡がっていっているような気もしました。

野田 ブロードウェイでは?

小山内 昨年開幕したリン=マニュエル・ミランダ作詞・作曲の『ハミルトン』(7月)は画期的な作品で、今年のトニー賞は確実と言われています。これは、日本人には馴染みが薄いですが、ジョージ・ワシントンの右腕としてアメリカ建国に尽力し、初代財務長官を務めて十ドル紙幣の顔にもなっているアレグザンダー・ハミルトンの伝記劇です。リン=マニュエル・ミランダはヒップホップを使った音楽が特徴で、『イン・ザ・ハイツ』ですでにトニー賞の作品賞・楽曲賞をとっています。ただ『イン・ザ・ハイツ』では、ヒップホップを中心とした歌に加えて台詞の部分があるのですが、『ハミルトン』は全編音楽なんです。伝記劇だと説明的な部分と歌い上げるべきところが混在しますが、『ハミルトン』では議論や説明的な部分をヒップホップで早口に語り、深いドラマはポップスでたっぷりと歌わせる。つまりオペラのレチタティーヴォとアリアの役割分担をミュージカルに持ち込んだのです。全編音楽のミュージカルはロイド・ウェバーやクロード=ミシェル・シェーンベルクがすでにやっていますが、このような音楽の使い分けは『ハミルトン』が初めてで、ミュージカルに新しい息吹を吹き込みました。

 

公共劇場の作品

野田 アンケート結果ベスト舞台をみて目立つのは、静岡芸術劇場(SPAC)の作品が三つ上がっています。『グスコーブドリの伝記』(宮城聰・演出、1月)、『メフィストと呼ばれた男』(宮城・演出、4月)、そして『天使バビロンに来たる』(中島諒人・構成/演出、4月)。招待作品にしても、芸術監督の宮城が自分で演出するにしても、公共劇場のプログラムとして芯が通っているからなのか、まわりにアピールしやすいんでしょうね。F/Tでも野田秀樹版『真夏の夜の夢』を宮城が演出した作品(初演11年)が再演(10月)されていましたね。

高橋 あれは再演でとても良くなっていました。

野田 野田版を宮城は自然破壊のテーマを前面に出して演出しているので、これは「ふじのくに」静岡で富士の樹海を背景にしてやるから意義があるのかなと思っていたら、東京でやっても十分見ごたえがあった。
 それから東京芸術劇場の作品にも、必ずしも劇場制作作品ではないのもありますが、アンケートでいくつか票が入っていますね。あとは世田谷パブリックシアターではロベール・ルパージュ作・演出『針とアヘン』のリメイク(10月)が入っています。兵庫県立ピッコロ劇場神奈川芸術劇場(KAAT)での上演作品もアンケートにはあがっていますね。
 新国立劇場ではチェーホフ『桜の園』(鵜山仁・演出、11月)に票が入っています。ただ、柄本祐のロパーヒンはよかったんですが、ラネーフスカヤ夫人を演じた田中裕子があまりに達者な「大女優演技」をするものですから、それにひきづられて全体的に役者芝居になってしまった観が若干ありました・・・・・・。

小山内 新国立劇場では『バグダッド動物園のベンガルタイガー』(ラジヴ・ジョセフ作、中津留章仁・演出、12月)をおもしろく見ました。相当に文化が違う世界を、中津留が日本人に伝わりやすい形でばっさりと演出していましたね。