座談会 「戦後70年」と忘却の痕跡 2015年演劇界回顧
震災、そしてさらなる振り返る視線
高橋 同じくF/Tでは飴屋法水『ブルーシート』(11月)が再演されましたね。13年に飴屋が当時の福島県立いわき総合高校の生徒たちと作って、そこで上演された作品が、15年に初めて東京で上演されたわけですけど、そこに時間というものをすごく感じたんですよ。3.11から時間が経ってしまったというのを感じたのはなぜなのかな、ということなんです。
野田 F/Tから離れると、流山児★事務所『新・殺人狂時代』(鐘下辰男・作、日澤雄介・演出、6月)がありましたね。今回は『殺人狂時代』(02年)や『続・殺人狂時代』(04年)に登場していた殺人集団はもはや出てこない。舞台は大地震で壊滅状態にある地下の、おそらく核廃棄物の最終処理場らしきところで、そこで危険な作業に従事している人たちが閉じ込められてしまう。作業員達は、地元組と、他所から出稼ぎでやってきた組との二派に分かれてしまっている。そこにひとり、反核ジャーナリストが混じっているという設定です。そんな男臭い対立構造の中、最終的にそこから地元組の一人がリーダーに選ばれることになる。彼の決断により、皆が床に散らばった瓦礫やパイプを片付けると、恐ろしいマンホールの蓋が見つかってしまう。たぶんその下は放射線量が大変なことになっているようだ。それでリーダーがもう一度瓦礫を元に戻せと命じるんです。再びマンホールを隠せということなんですが。これもまた忘却の痕跡という意味で、忘れてしまおうとする様態を問うていたと思います。そういう意味では戦争のみならず、3.11さえもがもはや忘却の対象になってしまっている。
小山内 彼らはどこにも行き場所がなくて、脱出口を探してやっとみつかったのが、そのマンホールなんですね。当初彼らはそこから脱出しようとするのですが、その下はもっと劣悪な環境であることがわかる。これはエネルギー政策の出口のなさを象徴的に思わせました。
翻訳劇で秀作だったのは、俳優座劇場『月の獣』(リチャード・カリノスキー・作、栗山民也・演出、10月)。第一次大戦中の1915年、オスマン帝国(現トルコ共和国)で起きたアルメニア人虐殺で家族を殺された写真家アラムが、生き延びてアメリカに亡命する。彼はそこで、取り寄せた写真お見合いで結婚することになった幼い妻セタを迎えます。やはり家族を虐殺されたセタはアメリカに逃れてなお、怯えを隠せませんが、実はアラムはもっと深い闇を抱えています。彼は亡くなった家族が写った大きな写真を居間に飾っているんですけれども、その顔の部分がくり抜かれているんですね。その空白の父の顔を自分の顔で埋めて、母の顔の穴を妻で埋める――つまりなくした家族を取り戻すことにアラムは異様に執着しているんです。しかし、いち早く新生活に順応した妻が不妊症で、なかなか子供ができず、結婚生活もぎくしゃくしてくる。この舞台ではアメリカに新生をもとめた夫婦が、戦争がもたらした顔のない写真によって絶えず見つめられているという息苦しさを感じさせます。しかも、語り手の老人が救済のタネになるという仕掛けが施されています。忘却とは逆で、過去から逃れられない苦悩からの再生を描いた、緊密な舞台でした。
演出の栗山は神奈川芸術劇場(KAAT)『アドルフに告ぐ』(手塚治虫・原作、6月)でも、アイデンティティの希求という意味で同じテーマを扱っていますね。虚構性の濃い作りになっていますけれども、真正のドイツ人になろうと冷徹な上昇志向を発揮するアドルフの狂気を描いています。
高橋 同じように戦争もので、青年座『外交官』(野木萌葱[もえぎ]・作、黒岩亮・演出、7月)。戦争がなぜ起きたのか、外交官たちはなぜそれを止められなかったのかということを、外交官OBたちが語り合うというかなり高度な論理劇で、感心しました。こういったものがもっと展開してほしい。ここでの問いは、まさしく今語るべき問いです。大変タイムリーな企画で、青年座にエールを送りたい。
野田 英国でも14年に『ヴェルサイユ』(ピーター・ギル作)という舞台が、第一次大戦がはじまって100年という時期で、その戦後処理にかかわった外交官の幻滅を現代の世界状況に投影していましたね。
小山内 『外交官』は、外交官の呻きを通じて戦争の舞台裏を描きえた点で、成功していたと思います。特に重光葵の国を背負っての雄弁のすごさと、敗戦後集まった外交官たちの、東京裁判を前にした重苦しい寡黙、この対比構造が秀逸でした。もっとも、作者である野木は「戦後70年とか、敗戦とか、今につながるとか、一切考えていなかった」と発言しているんです(『毎日新聞』東京夕刊、15年8月12日)が、これも興味深い。時代からの発想ではなく、人間が置かれた状況からの発想が生きた芝居でした。
フェスティバル
野田 フェスティバルというと、F/Tに関しては戦後70年との関連で『犀』や日韓共同制作作品を論じてきました。あと、今年も続きますが、別役実フェスティバルがありましたね。
高橋 鵜山仁が別役作品にはじめて挑戦する(劇団昴『街と飛行船』16年1月)というので、別役実という偉大な劇作家をもう一度考えてみようと劇団を通して呼びかけました。その結果19の劇団が集まったのがフェスティバルのきっかけです。作品的に偏りはありますが、全部観ていくと別役の軌跡がだんだんわかってくる。リーディングや音楽という様々な切り口でも別役世界を呈示していました。
文学座9月アトリエの会『あの子はだあれ、だれでしょね』(藤原新平・演出、文学座アトリエ、9月)は、人間の悪意というものを象徴的に書いた別役世界が出ていました。小劇場運動を含めてずっと突っ走ってきた一人の劇作家あるいは演出家に対する尊敬というのは、これまであまり現代演劇にはなかったと思うんです。別役実フェスティバルは、そういう演劇界の先達に対して一種のエールを送っていた。
野田 私が観たのは名取事務所『壊れた風景』(眞鍋卓嗣・演出、7月)でした。この1976年初演の戯曲の最後の方で、放置されていたピクニック・セットをほとんど食い尽くしてしまった通りがかりの登場人物たちが思い出せていなかったこれまでのルートが、実は端を渡って右に曲がるものだったということが刑事によって明かされます。これは明らかに戦後の日本がとった政治的右展開を描いていたんだと思います。別役は「なにを」忘れたのかはほとんど示さないのですが、「どうして」忘れたのかというところは延々と展開する。
小山内 『あの子はだあれ、だれでしょね』にもそれは通じますね。11年の尼崎連続変死事件に材を採ったこの作品、ある家族に取り入った「みよこ」が、家族を思いのままに翻弄してしまう。彼女が「こうなる」といったら、家族はおのずとそうなってしまうんですね。「お父さんは自殺する」と言ったら、まもなく本当に自殺してしまう。マインド・コントロールされているわけですが、この作品はこのマインド・コントロールで操る場面を一切描いていないんですね。その過程を省いて、みよこの示唆とそれがもたらした結果だけを見せれば、これは不条理劇になるわけです。これは、安全保障関連法制を手もなく受け入れてしまった現代の日本社会にも通じる構造を暗示するかのようです。
野田 それから、生誕80周年を記念して寺山修司作品がかなり上演されていましたね。
高橋 寺山作品は謎が多いので、若い演劇人でもそれに取り組んで新たなものを呈示できる魅力があります。古い方で言えば維新派『レミング』が再演されました(12月)。13年の初演の時には演出の松本雄吉がなぜこの作品をやるのかがわからなかったのですが、今回は完全に維新派の『レミング』になっていた。時代がそっちの方に動いてきたというのもあって、わかりやすくなってきた。寺山はそれだけのキャパシティがある劇作家だったんだな、とも思います。
振り返るべき作家の再検討という意味では、宮本研に対する関心が深まった年でもありました。アンケートの中に文学座『明治の柩』(6月)が挙がっています。『明治の柩』は劇団東演も上演していて(11月)、その前には青年座『からゆきさん』(11月)があります。文学座の『明治の柩』は髙瀬久男の最後の演出作品ということでアンケートに入っているところもあると思います。ただ、文学座の髙瀬演出を批判するわけではないのですが、東演の黒岩亮・演出による『明治の柩』の方が舞台として若干筋が通っていたのではないかという気がします。とはいえ、宮本研という旧世代の現代演劇に対する関心が高まってきたのは好ましい風潮だと思いますね。三好十郎・作の東演『廃墟』(鵜山仁・演出、5月)もありましたし、現代演劇の再検討という意味ではよい流れだと思います。
野田 そういう戦後の作家の見直しということが出てきた。やはり見直すべき人々というのがだいぶ増えてきたという気がします。
高橋 いま、宮本研の『からゆきさん』などを女性の視点からもう一度検証するというようなこともあると思いますね。
それからやはり取り上げたいのが、80歳になった蜷川幸雄です。体調が優れないのにもかかわらず、外公演を含めて作品を次々に発表しました。さいたまネクスト・シアター『リチャード二世』(4月)では、この上演が少ない歴史劇をホモエロチックに展開してみせて、こんなにおもしろい作品だったのかと思いました。
野田 ゴールドとネクストの俳優をうまく使って、老若両世代のコントラストが効いていましたね。冒頭では、舞台内舞台の奧を抜いて、そこから車椅子に座ったゴールドの俳優たちが、ネクストの若い俳優たちに押されて観客の方に進み出てくる。喜寿のお祝いと成人式とが同時に開かれているような光景に、一瞬観ている方は戸惑います。するとそこでアルゼンチン・タンゴがかかる。それにあわせて車椅子の老人たちが全員一斉に立ち上がって、若者たちと踊り出す。ところがそのあと老人たちの世代はある意味脇に追いやられるようになってしまって、物語の内容と同様、若者たちにないがしろにされる対象になっていく。リチャード二世という若く美しい国王と、ヘンリー・ボリンブルックという彼の同年代のいとことが、同世代抗争を繰り広げる中で、老人たちは置いてけぼりを喰らっていくんです。これは世代間継承の不調というものを色々な形で象徴していました。これもまた一つの忘却の痕跡のあり方なんでしょう。
小山内 私も非常におもしろく観ました。ダンスや抱擁が関係を示唆し、蜂起した市民の出で立ちは百姓一揆のようで、市井の視座を並置しました。孤立したリチャードが布を使った川をよろばい歩くシーンとか、十字架の場面とか、美術的な工夫も見所が多かったですね。
野田 床の上に十字架のライトが落ちて、そこでほとんど褌一丁のような格好のガリガリの内田健司演じるリチャードが横たわるところですね。そのリチャードが王冠も被っているので、かれがいわば磔刑の前のイエスのようにも見えてしまう。これは土方巽の『四季のための二十七晩』(1972年)を思わせるんですね。これに蜷川は感動して、「土方さんが裸の上に白い褌をして、長い髪の毛を結って、腰に布を巻くと、紛れもなくイエス・キリストに見えてしまう。純日本的な、前近代的なものを使いながら、ヨーロッパのある高みまで一挙に飛んでしまう」(蜷川幸雄、長谷部浩『演出術』、83頁)とまで言ってますから。あれを蜷川流に使って見せたのが十字架の場面だったんじゃないかと思いますね。
高橋 『ハムレット』も上演してますね(1月)。蜷川演出の『ハムレット』はこれで何度目だろうというくらいなんですが、今回は唐十郎の『下谷万年物語』と『唐版 滝の白糸』を彼が演出した時に朝倉摂がつくったのと同じ日本の貧乏長屋を背景セットに使っていました。平幹二朗演じるクローディアスが、年齢を押して、わざわざ上半身裸になって水を被るというシーンまでありましたね。 そんな15年の蜷川演出作品の中で、私がもっともおもしろいと思ったのは、音楽劇『青い種子は太陽のなかにある』(8月)でした。20代の寺山修司による未刊行の戯曲で、1960年代の日本を思わせて、その後の天井桟敷時代の作品とはまったく違うナイーブな感性を発揮した青春劇になっています。建設事故で朝鮮人労働者が亡くなり、それを隠蔽しようとするのに若者が怒りをこめた抗議をする。しかし彼のフィアンセは、結婚を優先させて、彼にこの事件を忘れるように訴えるんですね。これを渋谷のオーチャードホールという2000人収容の大劇場で展開するわけです。ちまたの評判はあまり良くなかったのですが、私はあれがベストだったんじゃないかと思っています。
野田 婚約者の弓子を演じた高畑充希が一人で持っていった舞台、というのが私の印象でしたが・・・・・・(笑)
小山内 中越司のH. ボッシュの絵を思わせる奇怪な美術と、松任谷正隆の音楽により、寺山の若書きのナイーブな劇作を、適度なエンターテインメント性で補って見せた舞台だったと思いますね。高畑の清新な演技と歌唱がそれを支えていました。グロテスクな美術は、のちに「見世物の復権」を唱えた寺山の演劇論を具現したものでしょうか。
すぐれた再演
野田 蜷川は、過去に演出した作品を上演する時に、昔の演出を繰り返さないというスタンスをとってきましたが、昨年は体調のせいもあって、過去の有名な演出作品を、演出そのままで再演するというのが目立ちましたね。1980年の「仏壇マクベス」として知られる『NINAGAWA・マクベス』の再演(9月)もそうですし、美空ひばりの歌声が響く1980年初演の『元禄港歌』(秋元松代・作)の再演(16年1月)もそうでした。これはどこか自分の伝説の舞台を観られなかった世代にも、自己の足跡を見せておきたいということなのでしょうか。 そういえば優れた再演が目だった年でもありましたね、15年は。
小山内 三本あげれば、マームとジプシー『Cocoon』(6月、13年初演)、こまつ座『マンザナ、わが町』の18年ぶりの再演(10月、1993年初演)、それからミナモザ『彼らの敵』(瀬戸山美咲・作/演出、7月、13年初演)――これはすべて戦争に関わる作品です。こまつ座の初演は観ていないのですが、今回の舞台はヴィヴィッドで素晴らしかった。『Cocoon』 も初演から手直しして臨場感を増しましたし、『彼らの敵』の場合は「イスラム国」による邦人殺害事件後とあって違って見えてくるところがありました。三作とも俳優も優れており、見応えのある舞台でした。
高橋 私はこまつ座『マンザナ、わが町』の初演を観ているのですが、そのときのインパクトはすごかったのを覚えていますね。こんなことを井上ひさしはやるんだ、という。ミナモザもやはり、初演時に、女性演劇人の時代に本当の意味でなったんだなということを思わされた作品でした。良いものは再演されて、今の時代にうつされていくということを再確認しました。
野田 新作偏重主義的な日本演劇界の傾向が変わってきたのかなという感じもしたのですが。
小山内 でも本来は、ブロードウェイやウェストエンドでのロングランシステムのように、良い作品は長く上演され続ける方が観劇できる機会は高いのですよ。その反面、ロングランシステムでは一度クローズしたら、リバイバルされるまで数十年と観られないことがある。逆に日本は二週間なら二週間と期間を区切った限定公演が多く、劇評が高く評価しても、それが世に出るのが公演終了後になってしまうこともあるので、その時に観られなかった客層が存在する。だから日本はブロードウェイよりは再演が容易で、かつその意味は大きいのです。評価が高かった舞台が数年経って、場合によっては全く新しい演出で再演され、再評価を受けるというのは、むしろ普通にあって良いことでしょう。
高橋 再演で言えば、ケラリーノ・サンドロヴィッチ『消失』(12月)、04年の初演はわからないところが多かったのですが、今回同じキャストでの再演が非常におもしろくてですね、良くできたトラジコメディだなと感心しました。再演によってもう一度観客に問いかける試みというのは、是非継続して欲しいですね。
野田 『消失』も核戦争後の世界という意味では、戦争がらみですよね。そこに現状を認められない、そして過去を忘れられない人びとが出てくる。
高橋 そういう点では『消失』は、3.11後の今の方がぴったり来るのかもしれません。
ケラは『グッドバイ』(9月)が票を集めていますね。太宰治の未完の遺作をケラは大幅に書き加えて、予想外の展開の中で終わらせています。エンターテインメントとしても優れていました。特に小池栄子が、ものを散々食い散らかしていく美女にして怪女のキヌ子を快演してました。
小山内 『グッド・バイ』は私も高く評価します。太宰の初期設定をうまく活かして、群像劇に仕立てていましたね。主人公は、あまたの愛人を清算するために、絶世の美女キヌ子を妻と称して愛人達に紹介してゆく。つまり別れの行脚なのですが、原作の設定だと一人一人訪問するので話は単線的なんです。ところがケラは愛人達にそれぞれ複数の接点を持たせ、有機的にいろんな要素が結びついてきて、コメディ・タッチの群像劇となる。この構成が非常にうまいですね。『百年の秘密』や『祈りと怪物』(ともに12年)といった、近年ケラが手掛けた大作で人間模様に有機性を持たせる技術が、『グッド・バイ』にも活かされていました。