座談会 「戦後70年」と忘却の痕跡 2015年演劇界回顧
【本座談会は、座談会・年間回顧2015として『シアターアーツ』60号に掲載されたものです。編集段階でのミスが目だったため、新たに編集して、お詫びとともにここに再掲します。(編集長・野田学)】
忘却の痕跡と2015年
野田学(司会) 『シアターアーツ』今号の特集題を「忘却の痕跡」にしたのは、「戦後70年」ということで、《なにを忘れたのか=忘却の内容》ということよりもむしろ《どうして忘れたのか=忘却の様態》を問いたかったからです。昨2015年は、特に安全保障関連法制をめぐる政治上の危機感を反映する演劇作品が多かった。アンケート結果にもそのような関心が反映されています。
会員アンケートで特に票を集めたのが、安全保障連法案の可決をめぐる危機感を描くTRASHMASTERS『そぞろの民』(中津留章仁・作/演出、9月)でした。
高橋豊 中津留らしい問題提起型の作品。戦後70年という時点で、安保関連法案をめぐって、多数決によってすべて押し流されていく不安が伝わりました。ただ、それを《私状況》だとすると、マスメディア、特にNHK批判が主軸となっていた《公状況》の方は、マスメディアにいた者からするとやや聞き覚えのある言葉かな。総論賛成、各論でいくつか疑問ありという感じです。
小山内伸 日本は右派の首相の下、面舵をいっぱいにきったわけですが、それでも国民が従順に体制を受け入れてしまう。その構造を撃ったという意味では非常に意義深い作品だったと思います。マスコミ批判の部分はたしかに床屋談義の域を出ないところがあって、あまり現実を突いていないという不満が私にもありましたが、主眼は父の死をめぐって三人の兄弟が責任を問い合う後段のくだりでしょう。軍需産業にかかわる現実主義者の長男、マスコミにつとめる協調性のある次男、そして会社を辞めてしまった理想主義者の三男が議論するわけですけれども、その中で作者はバランス感覚のある次男を断罪する。彼の協調性は単に「空気を読む」ということにすぎないのであって、結局他者との対話を避けている――そうした日本人の典型を撃っている。
野田 『そぞろの民』という題名どおり、フラフラしてきた戦後70年の日本の民主化ないしは民主体制のありかたそのものを断罪しているということで、最終的に指弾の先はマスコミよりも、有権者のあり方そのものだった。自決を思わせるエンディングには疑問がありますが、アンケートで多くの関心が寄せられているのももっともだと思います。
高橋 テレビのコメンテイターを含めて、いわゆるリベラル派は次々に切られているという現実が、去年から今年にかけてあります。それを含めて言えば、「まあまあまあ」とやっている次男が、実は日本の有権者を含めた全員の象徴ではないかというところを、この舞台は摘出してみせた。時勢をふくめて色々と考えさせられました。
小山内 権力者を断罪する構造は作りやすいのですが、《普通》を撃つというのは意外と難しいので、それに果敢に挑んだという点は評価したいですね。
野田 沖縄の問題もリンクさせていました。「本土」の感覚と対照させるためにつぎ込んだんだろうと思うのですが・・・・・・。
小山内 沖縄というのは唯一、戦後の痛みを今も残している。それは本土の日本人が感じていない痛みです。前半のマスコミ批判と、後半の兄弟の議論との間に挟み込まれるようにして沖縄の問題が配置されていました。両者をつなぐ橋渡しとして有効だったのではないでしょうか。
野田 最後に次男の奥さんが、まさに「粛々と」新たな葬式の準備にかかるという場面。
高橋 印象的でしたね。女性はある程度突き放して夫を見ているわけですからね。そこのところの距離感が出ていておもしろかったですね。
野田 戦後70年ということでいうと、劇団チョコレートケーキ『追憶のアリラン』(4月)にも票が集まっています。
高橋 朝鮮半島での戦前・戦中・戦後の日本人と朝鮮人とのありかたをしっかり見ようとした作品でした。朝鮮人が日本人役の人をここまで支えようとするものなのかというのは疑問でしたが、いかにもチョコレートケーキらしい切り込みには感心しました。
戦争物でいうと、チョコレートケーキの日澤雄介(演出)と古川健(劇作家)はOn7(オンナナ)に『その頬、熱線に焼かれ』(9月)を提供しています。これは原爆でやけどや傷を負った女性達、とくにケロイド治療のため47年に渡米し、報道対象にもなった「原爆乙女」の話です。これまでほとんど取り上げられることのなかった彼女たちの内部の葛藤を描いていました。
小山内 『追憶のアリラン』は、チョコレートケーキ『ライン(国境)の向こう』(12月)とも共通する点があります。『追憶のアリラン』の方は、それまで日本が軍政支配していた朝鮮が、終戦を機に支配者が変わる。『ラインの向こう』ではしばしば変わる国境線により分断された家族の話です。共通するのは、国家や国境というものがいかに脆く、変わりやすいものかという認識でしょう。『追憶のアリラン』では、平壌の朝鮮総督府の下で人間性を発揮した文民邦人検事を主人公とし、差別的な憲兵が唾棄すべき人間として対置されています。しかし核心は、邦人検事の豊川千造がかわいがっていた朝鮮人事務官の朴忠男が、いったんは安全圏に逃れながら、邦人検事への友情から、彼を共産主義下の人民裁判から救うために再び北に戻って奔走する点にあります。国家や支配というものよりも個人――友情、愛情――の尊さが謳われています。『ラインの向こう』においても、家族の前には国境というものがいかに虚しいものであるかといった状況を明示していました。一方はシリアスな歴史劇、他方はユーモアを交えた寓話劇ですが、両者は今の日本の危機に機敏に呼応しています。
野田 『追憶のアリラン』は、朝鮮人事務官の善意にあまりに頼りすぎているかなという印象を持ちました。文民と憲兵との関係も、本当はもっと微妙なはずですし、日本の良心的文官とそれを慕う現地の事務官という構図も若干感傷的だったかなと思います。佐藤誓演じる豊川が憲兵に妥協するのですが、そこにいたるまでの経緯が書き込まれていない。それが残念でした。『そぞろの民』の場合は、好き嫌いはあるだろうが、勝負したなという感じがしたのに対し、『追憶のアリラン』の場合は、結局個人レベルでは人間は通じ合えるのだから仲良くしていこうよという「うつくしい」メッセージに帰着してしまう危険がある。
高橋 たしかに『追憶のアリラン』にはちょっと甘さがありますよね。作者古川の亡くなった祖父の経験をもとにしているそうですが、それもあって突き詰め方がちょっと緩くなってしまったのでは。『ラインの向こう』も北日本と南日本に分かれて、それが対立していってという話。いつもだったらもっと突き詰めていくんじゃないかというところを、チョコレートケーキにしては珍しく、明るい予定調和を措定しているような感じがしたんですよね。チョコレートケーキだけではなくて、中年の男優達とも一緒に組んだために、そちらにも配慮してどこか寓話劇的な鋭さがなくて、なんだ、チョコレートケーキも優しくなってきちゃったのかなという印象でした。
日澤・古川コンビによるトム・プロジェクト『スイートホーム』(2月)では、家族の中で若者がみな殺し合っていくのですが、ああいう鋭い方向性をチョコレートケーキはもっとめざして欲しいかな。
小山内 ただ彼らの作劇は進んできていると思うんですよ。第一次大戦のきっかけとなったサラエヴォ事件を描いた一昨年の『サラエヴォの黒い手』は、実行犯、その後ろ盾となった秘密結社「黒手組」、そしてロシアのスパイという三者の思惑が微妙な化学反応を起こした結果、第一次世界大戦が起きたという壮大なプロットですが、一つの土地を複数のグループが争わないで共有するにはどうしたらよいかとのクイズが、最後の方で死者達により問いかけられます。『追憶のアリラン』と『ラインの向こう』は、その問いに対する答として国家より個人が優先される姿を呈示しています。問題提起だけでなく、何らかの答を探ろうとする積極性は評価したいですね。
野田 おもしろい切り口を示していたのが、フェスティバル/トーキョー(F/T)で上演された岡田利規『God Bless Baseball』(日本初演11月)でした。日韓両方の俳優を使い、韓国人の役のはずなのに、演じているのは日本語を話す日本人俳優だったりするという仕掛けもある。
スピーカーから聞こえる天の声が、アメリカ訛りの英語を話すベースボールの神様からのお告げのようにスピーカーから聞こえ、「スリー、ストライクス、アウト!」という声がこだまする。いまだに帝国主義的覇権にしがみつこうとしている米国の安全保障体制の中に、日韓が組み込まれていることに対する違和感が伝わりました。
高橋 岡田らしい切り口の作品。三カ国の間を野球というボールがどうやって転がっていたかを見せる不思議な空間でした。
野田 一番最後に、舞台後方にぶら下がっている大きな傘に対して、時間をたっぷり取って執拗に放水をする場面がありましたね。すると傘が溶けて、どろどろとなったスライム上の白い塊が舞台にボトボトと落ちていく。おそらく傘はアメリカの核の傘ということなのでしょうが、それがボタボタと落ちていく感覚というのが、どこかこの米国による安全保障という傘が意味するところを日本人が忘れてしまっている、そのさまを示しているようにも思えたんですね。その意味であの傘の溶解の有り様というのは、忘却の様態を問うているような気がしました。
小山内 野球のルールをちゃんとわかっている人が一人しかいなくて、その彼がわかっていない二人の女性に野球のルールを説明していくくだりがおもしろかった。それも説明より、それを引き出す質問の方がおもしろい。知っている人にとってみれば自明なことも、わからない人にとってみればいかにも不条理に見えるということがはしなくも語られている。日本と韓国との間ですら、互いにわかっていると思っていたことなのに、実はわかっていないことがあるという構造を示した上で、天の声/神の声としてアメリカが出てくる。しかもその声の降ってくるあり方が一方通行なものだと示したのは巧みだと思います。
坂口勝彦 人間は、ルールにのっとってゲームをやっているつもりでいても、実は習慣のようなものにしたがっているに過ぎない。だから、本当は規則なんかないんだというのは、ウィトゲンシュタインを思わせますよね。その規則の象徴である傘に放水してみると、傘がどんどん溶けていってしまう。
小山内 ただ、中間部でイチローが他の人物達に、身体のコントロールを部位ごとにはずさせていくエチュードが、観ていて中だるみしました。岡田さん得意のダラダラ身体ですが、それがなにを意味するのかが今ひとつわからなかった。
坂口 捻子ぴじんが行ったダンス・エチュードのような箇所というのは、規則が通用しなくなっていくという過程を身体レベルで示しているものなんじゃないでしょうか。
關智子 アメリカを「父」として話しかけている息子がいて、個人レベルの話をしているようで、それが実は大きな話に繋がっているという所はよかった。個別的な問題と、普遍的な問題のつなぎ方が、岡田利規はどんどん上手くなってきているんじゃないかと思いますね。
日韓共同制作でもう一つおもしろい作品がF/Tではありましたね。シェイクスピアの『テンペスト』を脚色したキラリふじみ『颱風奇譚(たいふうきたん)』(11月)。作・ソン・ギウン、演出・多田淳之介なんですが、こちらの方は問題を投げかけるというよりは、むしろユートピアを目指したいという意志が見えた。それに対して岡田利規は問題を投げかけて終わる。
高橋 『テンペスト』は本来大いなる救いの話なんですが、むしろそこではないところに『颱風綺譚』は話を持っていっている。
小山内 これは翻案がおもしろかったと思いますね。原作を置き換えた人物造形がうまくて、それで日本と韓国との関係が浮き彫りにされている。
高橋 忘却の痕跡という意味では、そこが今の日韓関係を考えるとちょうどいいのかな。
やはりF/Tで上演されたパリ市立劇場『犀』(ユジェヌ・イヨネスコ作、エマニュエル・ドゥマルシー=モタ演出、11月)。これが、今すごくヴィヴィッドに感じられたんですね。『犀』は日本では文学座などにより上演されていますけれども、これまでで一番良かったですね。人々がいつのまにか犀になってしまうというのが、リベラルな人たちが次々と保守派に鞍替えして今の政権を支えていく・・・・・・こういう変節を象徴していた。今回の『犀』に胸をうたれてしまったのは、まさしく戦後70年の忘却の痕跡がそこに沸々と浮かびあがってきたからなんでしょうね。