追悼・蜷川幸雄 「現役のまま去った蜷川幸雄を悼む」/ 高橋豊
「アングラから『世界のニナガワ』へ」「スター演出家」--5月12日80歳で逝去した演出家・蜷川幸雄を悼む報道や特集でよく目にしたフレーズだ。
ちょっと待ってほしい、と1960年代後半から蜷川演出作品を観続けた者としては言いたくなる。決まりきった演劇理論による西洋の戯曲の紹介か、日本の現状と真摯に向き合わない現代創作劇の上演でよしとする当時の新劇への批判が、小劇場運動の興隆を生んだ。「所詮はアングラ(アンダーグラウンド)演劇」という旧来の劇団や演劇評論家から投げつけられた “蔑称” が、いつの間にか定着してしまった。けれど、その差別構造を知っているから、安易に「アングラ」と言わない、書かない “決意” が、あの時代を生きた演劇人・観客にはある。
本当のことを言えば、私は「世界のニナガワ」以前の、彼の挫折、屈折を重ねた生き方に心打たれる。けれど、編集部からは「過去は簡略に、やはり世界のニナガワの広がりを中心に」との要請もある。簡略に記す。
「桜が灰色に見えて、美しいと思ったことは一度もない。桜が桜に見えるまで20年もかかった」。蜷川は埼玉県川口市の洋服の仕立て職人の末っ子として生まれた。名門・開成学園に進むが、実家周辺の子が中卒後、すぐ仕事に就いていることに「後ろめたさ」を感じたほか、受験体制への反発もあり、高校1年で留年してしまう(仲間21人)。さらに、東京芸術大学への入試は失敗し、劇団「青俳」に研究生(俳優)として入団する。
青俳で蜷川は「貴族俳優」と揶揄されるほど、裏方の仕事やアルバイトは一切断り、劇団の研究会などで戯曲分析に励み、後輩から「演出をやってほしい」の声が高まった。だが、劇団幹部は「新劇の演出家は、例えば俳優座の千田是也、民藝の宇野重吉ら、名優と言われた人がなっている。(そうでない)君には説得力がない」と認めない。
蜷川は、蟹江敬三、石橋蓮司ら若手俳優と共に劇団「現代人劇場」を立ち上げ、1969年、清水邦夫作『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビューする。鮮烈で観客をアジテートする作品だった。行列を巡って国家権力が介入してくる話なのだけれど、終幕、いつの間にか観客席を警察機動隊(もちろん役者)が取り囲み、客席でジグザグデモが始まるなど、痛いほどの熱気にあふれていた。
現代人劇場、その後の劇結社「櫻社」と、蜷川は「政治の時代」に反体制運動と伴走するような作品を作り続けた。潮はあっという間に退いていく。蜷川自身から聞いた話で、今も印象に残るのは、そのころ、東京・新宿で青年に呼び止められ、喫茶店で「いま希望を語れますか」と詰問されたときの話だ。「語るべき希望なんて一つもないよ」と答えると、青年は「あなたの芝居をずっと観てきました。いま『希望』を語ったら、射すつもりでした」とテーブルの下のジャックナイフを引き込めた。危地に立つ覚悟を求められていることを、蜷川は改めて知ったのだ。
74年、蜷川は東宝に請われて日生劇場でシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を演出した。三層の舞台装置で、広場には群集が詰め掛けている。主役の市川染五郎(現・松本幸四郎)と中野良子に舞台で全力疾走させるなど、斬新な舞台だった。 この演出で、蜷川は小劇場運動の仲間に「商業演劇に身を売って裏切った」と責められ、櫻社は解散する。
苦境期をよく支えてくれた演劇人がいる。孤立無援だった蜷川に『唐版 滝の白糸』の戯曲を提供してくれたのは、唐十郎だ。この劇の総合プロデュースを担ったのは、現代人劇場・櫻社の舞台となった映画館アートシアター新宿文化の支配人だった葛井欣士郎である。東宝でタッグを組んだ中根公夫プロデューサーも忘れられない。フランスに長く留学し国際感覚にあふれた中根は、『NINAGAWA・マクベス』と、演出者の名前をタイトルに入れるという、それまでの商業演劇(新劇・小劇場を含めてだが)にない、異例の公演を行った。中根は「世界レベル」から判断して、蜷川演出作品は欧米でも大きな反応を受けると判断、『王女メディア』をギリシャで、『NINAGAWA・マクベス』を英国でと、あえて戯曲の本国での上演にこだわり、実現させた。「世界のニナガワ」はここから始まっていく。
長く蜷川を取材してして、大きな広がり、明るさを感じたのは、21世紀になって、芸術監督となった彩の国さいたま芸術劇場で、2006年発足の中高年劇団「さいたまゴールド・シアター」と、09年発足の若者集団「さいたまネクスト・シアター」と両輪の劇団での見事な演劇成果だろう。
特に現在平均年齢77歳のゴールド・シアターは、応募者全員と蜷川が直接、面談するなど力の入ったスタートとなった。71年に現代人劇場で初演された清水作『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』は、虐げられた老女たち(初演は若い俳優たちが演じた)が裁判所を占拠し、全員が射殺されるという劇的な物語なのだけれど、ゴールド・シアターの高齢者で演じられると、生活感がしっかりとついてきて、演劇として深みを増し、終幕、私は思わず泣いてしまった。現代人劇場の初演を観た人は同じような体験をしたらしい。
昨年に初演されたシェイクスピアの『リチャード二世』は、ゴールド・シアターとネクスト・シアターの合同による充実した舞台となった。冒頭に、ゴールド・シアターのメンバーの車椅子を、ネクスト・シアターの若者たちが押して舞台に集合し、アルゼンチン・タンゴと共に両者が踊り出すシーンは圧倒的だった。権力を巡る死と再生(愛)が冒頭の3分間で鮮やかに描き出された。この後の浪布など日本的なビジュアルが効果的に活かされ、地味な史劇を鮮やかに展開してみせた。
『リチャード二世』は、ハヤカワ「悲劇喜劇」賞を受賞、今年再演され、ルーマニアで開催された国際シェイクスピア演劇祭に招かれ、オープニングを飾った。シェイクスピア研究の権威マイケル・ドブソンが「これまで観た『リチャード二世』のなかで、明快さと新鮮さで本作が一番」と絶賛した。
シェイクスピア全37作品の完全上演まであと5本。難しい作品ばかり残っていただけに、蜷川さんがどう演出するか、本当に関心が深かった。冥福を心から祈る。