閉じない幕(カーテン)――SPAC『メフィストと呼ばれた男』/塚本知佳
1 『ハムレット』――このままでいいのか?
舞台はドラム缶を叩いたような鈍い鉄の音から始まる。しかしその響きはわずかで、あっという間に軽やかな打楽器の音に混じり、耳の奥へと消えていってしまう。そこにいるのはハンチングにジャケット、スカーフにスカートという民衆の姿をした演奏者たち。この不協和音と人々の姿が、緞帳という幕によって閉じられることのない舞台の幕開きとなるのだ。
トム・ラノワ作『メフィストと呼ばれた男』は、クラウス・マンの小説をもとに、ナチス政権下の劇場とそこで働く俳優たちの葛藤を描いた戯曲である。戦時における芸術家の姿を問うこの作品に、演出の宮城聰は劇場を縦割りにするという大胆な仕掛けを施した。まず、静岡芸術劇場の実際の客席から舞台にいたる空間を縦半分に仕切り、下手側の半分を劇の舞台に、上手側の半分を観客席として振り分ける。観客席は、もともとの劇場の客席とはおよそ90度角度を変え、まるで上手の舞台袖からステージを眺めるような位置関係でステージ上に設けられる。通常の客席の一部も今回の観客席として使われているが、どの席をとってもステージと正面で向かい合う席はない。そして、劇場の客席中央にはリハーサルを見る演出家用のテーブル、半分を観客席に占拠されたステージにはセットのイスが数脚、ステージ後方には劇場付きの演奏者たちの囲みがあり、ステージ背面には背丈ほどの高さの箱のような台がある。つまり、今回の観客席から見ると、左手に劇場の客席(演出家席がある)、中央にステージ、右手に台という横並びの配置になっている。
この作品は劇場内での出来事を描いているため、下手の客席と舞台はもとの劇場構造のままに客席と舞台として用いられる。つまり、劇中劇ならぬ「劇場内劇場」といった作りとなっているのだ。そのため、例えば舞台セットとして使われる二本の柱のうち、一本は俳優のいるステージに、もう一本は観客席の間に立てるなど、観客は常に自分が座っている場所がステージの一部であるということを意識させられる。この劇の内側に図らずも入り込んでしまったようなある種の居心地の悪さ、それは人体がCTスキャンされ、本来なら決して見ることのできない体の内部が断面として可視化されるにも似た驚きと戸惑いの感覚である。
物語の中心人物は名優クルト(阿部一徳)。いまや演出も兼ねる彼が、演出家席から若い俳優ニクラス(若菜大輔)に古典作品の価値と台詞の韻の踏み方について教えている。そこに国政選挙のため遅れてきた女優たちも加わり『ハムレット』の稽古が始まる。ところがニクラスはスター女優のレベッカ(美加理)がユダヤ人であることから演技上でも彼女に触れるのを拒否する。俳優たちはニクラスの差別的な態度や発言を非難するが、そこにナチスが勝利したという選挙結果が伝わってくる。一同が騒然となる中で、レベッカは「私はもうここにいられない」と静かに劇場を去り、またニクラスもその発言からクビを宣告される。
このように同じ劇場で働いていても、俳優たちの階級や人種、思想や立場は同じではない。子ども時代から天才と讃えられたクルト。芸術監督であり共産党シンパのヴィクター(渡辺敬彦)。ナチスを支持するニクラスは貧しさの中で育ち、気の強い女優のニコル(本多麻紀)は裕福な家庭の出身。懸命に稽古する新人女優アンゲラ(山本実幸)、ユダヤ人の大女優レベッカ。そして俳優たちの面倒をみるクルトの母親ヒルダ(鈴木陽代)――さまざまな出自の人々が集えた場であったはずの劇場が、ナチス勝利のニュースで一瞬にして様変わりするのである。
もちろん劇場に集うのは俳優だけではなく、演奏者たちの存在も忘れてはいけない。彼らは劇全体の音楽を奏でるためだけにそこにいるのではなく、クルトたちの劇場の一員でもあるのだ。演奏者は、お茶を飲みながら俳優たちの議論に耳を傾けたり、手招きして俳優に何かを耳打ちしたりと、まぎれもなくクルトたちと同じ状況に生きている。ただ、名前のある主体的な俳優たちに対し、演奏者たちには名前も台詞もない。しかしこの舞台が示唆するのは、これら演奏者のような無名の民衆こそが政治や社会を動かしているということではないだろうか。国家社会主義政党ナチス――彼らもまた民衆の支持によって政権を獲得したのだ。だが、そのナチスに抵抗を続けたのもまた民衆である。聞こえない演奏者の声は何を語っているのだろうか? こうして時代は大きく変わっていく。
2 『桜の園』――弔いの鐘
レベッカの去った劇場に、巨漢の文化大臣(吉植荘一郎)が現れる。皆が怖れていた通り、巨漢は劇場の方針に変更を求め、ヴィクターを芸術監督から解任し、代わりにクルトを指名する。そのうえナチ党員のニクラスを劇場に戻し、さらに自分の愛人リナ(鈴木麻里)を女優として加える。ヴィクターやアンゲラは、この状況に不安の色を隠さない。だがクルトは、この闘いのなかでは妥協も必要であり、そのために自分が「生贄になる」と皆を説得し、巨漢の提案を受け入れる。それでも納得できず辞めようとするヴィクターに、クルトは『ジュリアス・シーザー』の台詞を投げかけ、二人はその台詞の応酬によって友情を取り戻す。
この作品では、シェイクスピア、シラー、チェーホフなど、名作の台詞を随所で耳にする。それは、舞台稽古の場面で聞こえるのはもちろん、日常会話においても俳優たちが自分の心情を台詞に託して言うからである。ゆえに、ここでは台詞と日常会話の区別がない、というよりも、台詞なしの日常会話は成立しない。たとえば、これまで出てきた『ハムレット』や『ジュリアス・シーザー』は戯曲が韻文、すなわち「詩」で出来ており、これらの詩が彼らの会話そのものになる。つまりこのさまざまな人が集う劇場において、詩こそが彼らの共通言語なのである。だからクルトとヴィクターは台詞を言い合っていたのではなく、詩の言葉によって会話をしていたのだ。演劇という同じ目的をもつ者だけが語りえる詩という特別で美しい言葉。しかしときに人は、詩の美しさに閉じ籠ることで見たくない現実に幕をかけることもできる。詩の特別性を特権性にすり替えることで。
舞台では『桜の園』の稽古が始まっている。『桜の園』の「現代的」な演出に難色を示す巨漢は、ニクラスの口語的な台詞回しを注意し、執拗に韻のリズムを刻むよう要求する。クルト同様、古典作品の価値と韻の重要性を語る巨漢だが、二人の発言は表面上は同じでも、その意味するところは正反対である。クルトが『桜の園』を選ぶのは、作品の時間的な新しさにもかかわらずそこに古典的価値を見出すからだ。一方、巨漢は古典を絶対視してそれ以外の戯曲を認めようとせず、「古典」というレッテルとともに思考停止している。つまり、ニクラスに対するクルトの行為は演出であったが、巨漢の行為は命令でしかない。だから巨漢は「韻を踏む」という自分の命令に従わないニクラスを劇場から追放する。こうして次第に演出は命令にすり替わっていく――クルト自身が思考停止していくなかで。
『桜の園』の稽古が始まる前、劇場を去ったレベッカの姿が台の上に現れる。彼女のいる畳一畳ほどの空間は、照明も薄暗く、全体の輪郭は判然としないが、どうやら亡命先の部屋らしい。台のレベッカと演出家席にいるクルトは、当初、二人だけで稽古をするように手紙を読み合っていたが、レベッカが口にする『ロミオとジュリエット』の別れの朝の台詞のままに、二人の時間は長くは続かない。『桜の園』のリハーサル中もずっと薄暗い台の上に佇むレベッカ。クルトが巨漢やリナを気遣い、自分の演出をも変えていくにつれ、別の空間に居るレベッカの影が薄くなっていくようだ。レベッカの声は聞こえず、彼女の目にリハーサルが見えているのかさえ観客にはわからないけれども、彼女の仕草は確かに『桜の園』の台詞に呼応している。そして『桜の園』のピクニックの場面で聞こえるはずの不吉な音が鳴る代わりに、レベッカのカップを鳴らす音が静かに鳴り響く。
カップの澄んだ、しかし悲しげな音は、『桜の園』から出ていかなくてはならないラネーフスカヤ夫人に似て、劇場を去り夫人の役を生きることもできないレベッカが鳴らす演劇への弔鐘なのかもしれない。それともこれはクルトへの弔鐘なのだろうか。ロミオとジュリエットが手紙の行き違いによって死を迎えるとしたら、クルトとレベッカの手紙は困難な状況にある互いの「生」の確認のためであったはずだ。しかし、それがいまや、互いの演劇の「死」の確認となってしまったのだから。
ふと気がつくと、演奏者は全員がジャケットではなく同じ茶色の制服になり、淡々と演奏をしている。この変化に驚く間もなく「ビー」という大きなブザー音が耳を打ち、世界そのものが暗転してしまったかのように舞台は暗闇となる。
3 『リチャード三世』――孤独な王
暗転の後、「十年後」という字幕とともに、『リチャード三世』の台詞を言う王冠をかぶったクルトの姿が見える。しかしヴィクターとアンゲラも、台上のレベッカの姿も見えない。クルトは一人でイスに縮こまり、歪めた体にはそれまでの快活さは見られない。仲間のいない孤独な影がリチャード三世の役柄と重なっている。そこに巨漢が宣伝大臣(大高浩一)を連れてくる。宣伝大臣もまたリチャード三世のように片足を引きずり、高圧的な態度でクルトにドイツ人作家の作品だけを上演するよう命じる。躊躇するクルトに一つの選択肢が示される。それはクルトと宣伝大臣の条件をともに満たす作品、ドイツ人作家の作品で古典的名作『ファウスト』の上演だ。クルトはつぶやく、「私はメフィストを演じるべきか?」と。
ニコルが用意した化粧台に促されるように、クルトは観客席に背を向け化粧を始める。その頃、レベッカが再び台の上に姿を現す。そこにはアンゲラもいて、二人でチェーホフの『かもめ』の台詞合わせをしている。女優志望のニーナの台詞を明るく言うアンゲラをまぶしそうに見守りながら、レベッカは作家として挫折するトレープレフの台詞に声を詰まらせる。しかしレベッカとアンゲラにスポットライトが当たることはない。薄暗い部屋で上演の予定も立たない『かもめ』の稽古をする二人。その状況は苛酷だ。が、おそらく二人は孤独ではないだろう。アンゲラの演劇に対する情熱とレベッカに対する友情――かつてクルトが持っていたものがここにはある。
対照的に見えるレベッカとクルトだが、クルトもまたレベッカ同様、終わらない稽古の中にいるのではないだろうか。宣伝大臣には劇場の盛況ぶりを語るクルトだが、私たち観客が本番の場面を観ることはない。もちろん、劇場は存続しているのだから上演はあったのだろう。しかしこの舞台は、劇場を支える不可欠な要素である観客の存在を一切示すことがない。そして、この特殊な劇場構造は、私たち観客にも「観客」という特権的な地位にとどまることを許さないのである。
クルトにあるのは観客不在の上演だけだ。つまり、クルトにはリハーサルしか存在しない。いや、クルトだけではない、この作品の中で演じられるものはすべてがリハーサルなのだ。ステージで延々と繰り返される稽古、台上での台詞合わせ、客席での母親による朗読――舞台、台の上、客席、すべての空間で行われているのは本番のためのリハーサルだ。だが、いつまで経っても本番は訪れない。客席から演出家席がなくなることも、幕が閉じることもない。そして、クルトは一度として劇場の外に出ることはない。クルトは劇場という幕/膜に守られながら、リハーサルという永遠の現在にとどまっているのだ。しかし演劇という行為を、現実の時間と切り離すことは不可能である。時間をとどめ置くことなどできようもない。ついにクルトにも現実の時間が迫ってくる。そこで初めてクルトは自分が演じる役について――メフィストを演じるべきかを自問するのである。
戦前も戦中も、そして現在でも芸術作品として高く評価され続けるゲーテの『ファウスト』。しかし、政治家によって選別された『ファウスト』は、それ以前の『ファウスト』と同じものであるはずがない。この上演は、演出によってなされるのではなく、命令によってなされるからだ。つまりこの時点でクルトがメフィスト役を演じるのは、芸術を存続させるためではなく、劇場と自身の現状を維持するための担保にも等しい。クルトがメフィストを選んだとき、『ファウスト』は「詩」であることをやめ、まさに「悪魔との契約書」となるのである。
4 『ファウスト』――道化の悪夢
つばのない黒い帽子に黒いローブ、顔を白く塗ったクルトが『ファウスト』をはじめ、『ワーニャ伯父さん』『マクベス』『ダントン』など、さまざまな台詞を舞台を前後に動きながら何かに憑かれたように朗々と語る。すると、台詞に呼応するがごとく、宣伝大臣がバルコニーから演説を始める。台詞と演説、そして激しいパーカッションの演奏が繰り返され、大量の言葉と音が舞台に溢れる。耳は言葉をとらえるが、その意味をつかむことはできない。言葉の暴力とでもいうべき宣伝大臣の演説とは対極にあるはずの台詞が、狂騒の中でその色を変えていく。言葉と音は激しさを増し、不協和音もカップの音も、それはかき消してしまうだろう。
クルトの口から発せられるたびに、名作の台詞がその詩性を失っていく。台詞はクルト自身の叫びにも聞こえるが、観客という聞き手を持たないこの響きは、韻文の断末魔の呻きなのかもしれない。台詞がすでに担保となってしまった以上、これは詩ではなく、クルトの保身のための証文なのだ。台詞と台詞の間、白塗りのクルトはふと悪夢から醒めたように立ち止まり、『ハムレット』からの引用――「何かが腐っているのだ」とつぶやく。だが、悪夢が醒めることも、台詞が観客に届くこともない。もはやリハーサルも永遠の時間をとどめない。一方向的な語りを繰り返すクルトは、もうメフィストを演じることもできない。すでにリハーサルすら成立していないのだから。
リハーサルの魔法が切れた劇場には、現実の死が訪れる。母親は発作を起こし演出家席のテーブルの上に倒れ、ヴィクターは銃で撃たれステージで崩れ落ち、巨漢は台に駆け上がり自分で頭を撃ち抜く。客席・舞台・台の上の三つの空間すべてに死体は横たわるが、自然死・他殺・自殺という三つの死を前にしてもクルトは現実のことと受け止められないようだ。だから自分と行動を共にしてきたニコルが軍服に着替え、舞台中央で「私を女でなくして」と死の覚悟をもってマクベス夫人の台詞を語る姿をも、彼は客席から陶酔して見つめるのである。かつて台詞は彼らの共通言語であったが、詩を失ったクルトはもはや台詞の真の意味を理解できないのだろう。ニコルの言葉がリハーサルの台詞ではないことも、死体がそこにあることも、クルトにとってはすべてが遠い出来事のようにぼんやりとしている。ニコルは劇場を飛び出し銃撃戦の音の中に消えるが、クルトはそれでも劇場から出ることなく、客席に座り続ける。
一人きりになった劇場で、役を演じることもできないクルトは、王でも悪魔でもなく、白い顔をした道化のようだ。メフィストを演じると決めたとき、悪魔と契約を交わしたファウストのように、彼はこれまで演じてきた役さえもすべて売り渡してしまったのだ。これからは、ハムレットとして悩むことも、ロパーヒンとして野心を持つことも、リチャードとして孤独を味わうこともできない。役柄を失ったクルトは、自分自身をも失ってしまったのである。
5 再び、『ハムレット』――あとは沈黙
呆然と客席に座るクルトに、ソ連の新総統(大道無門優也)が近づき穏やかな口調で語りかける。劇場は今後も続けられ、クルトもそのまま劇場に残れる、と。クルトはその提案をぼんやりしたまま受け入れる。戦争は終わって新しい時代が幕を開け、劇場はナチスからソ連の支配下に移った。建物は大きな損失を受けず、戦後も多少の修理のみで使えることになる。しかし、俳優たちはどうだろうか? 俳優のいない劇場は劇場なのだろうか? ここからどのようにして「リハーサル」ではない本当の劇を始めることができるのだろうか? 劇場の幕は閉じられることなく、クルトは変わらず劇場にいて、そのまま次の時代に流れ込む。だが、閉じない幕をどうやって開ければよいのだろう。
そこにレベッカとアンゲラがやってくる。二人の姿に喜び、劇場に戻ってくるよう頼むクルトに対して、レベッカは「できない」と断り、アンゲラは演技は抜きで本当の痛みと情熱を表現するよう問いかける。しかし二人が去った後、ステージで、初めてきちんと私たち観客席と向き合うクルトの口から出てくるのは、「私が感じているのは……、私が言いたいのは……、私は……、私は……」という言葉にならないつぶやきだけだ。この言葉の空白は、およそハムレットの最後の台詞、「あとは沈黙」の雄弁さも意思も持たない、閉じることのできない口から漏れる空しい息の根である。クルトはもう台詞以外の、自分自身の言葉を発することができない。「メフィストと呼ばれた男」は、永遠に演じられることのないメフィストであり続けるほかない――終わりのないリハーサルのなかで。
*
『メフィストと呼ばれた男』は、ナチス政権下の芸術家の生き方を問う作品である。宮城はこの劇を、観客席とステージ、そしてレベッカの部屋を同じ平面に並べて置き、場面転換という時間と空間の余白を失くすことで、一方通行の直線的な時空間の中に描き出した。この時空間により、観客は安全な距離を置いた居心地のよい観劇も許されず、物語への安易な耽溺も禁じられる。横に広がった観客席には中心がなく、見やすい特権的な場所はない。座った席によって見える光景も聞こえる音も大きく変わるだろう。舞台の一方向的な時間によって、観客も問われ続けるのだ――何が見え何が聞こえるのか、ではなく、何を見て何を聞くのか、を。
(2015年4月25日観劇/静岡芸術劇場)