神像の沈黙、饒舌な日記 ── 鈴木忠志構成・演出『トロイアの女』と『からたち日記由来』における記憶の詩学と政治学 本橋哲也
はじめに
SCOT(Suzuki Company of Toga)を主宰する鈴木忠志が、2014年、25年間自ら「封印」していた『トロイアの女』を新しいキャストで上演し、さらに『からたち日記由来』という新作も上演した。両作とも2014年8月に利賀村で初演(その後、利賀大山房へ移動)、12月に東京の吉祥寺シアターで再演された(12月20日に観劇)。この小論はこの二作品を、記憶を主題とした連作として読み解く試みである。『トロイアの女』と『からたち日記由来』はともに、記憶がいかに構築されるかの政治力学を、鈴木の舞台に特徴的な演劇詩学によって示唆する。二つの作品が記憶の政治性に関して、いくつかの点で対照的な構造を持っていることを明らかにしながら、検証してみたい。
連作と捉える発想そのものは、それほど独自ではないかもしれない。たとえばジャンルとしては、そのどちらもが、いわゆる「狂女物」の伝統に属しているからだ。ここでは狂気にも関心を払いながら、主人公である『トロイアの女』におけるヘカベと、『からたち日記由来』における鎌子という── 一方は異民族による家族の虐殺と王国の崩壊、他方は階級差別によって抑圧された恋愛と心中未遂──どちらもきわめて悲惨な体験をした二人の女が、その記憶を語ることによって自身は生き延びていく体験を描く連作として、そこでの詩と政治との関係を考えたい。今回の舞台において狂気が重要な劇的要素となっているのは、記憶が作り出される過程においてである。そこでまず、記憶の構築プロセス、その詩学と政治学の予備考察として、『トロイアの女』においてはシェイクスピアの演劇『ハムレット』を、そして『からたち日記由来』においては降旗康男の映画『ホタル』(2001年)を参照する。それらの作品が、それぞれヨーロッパの「正典文学」と日本の「大衆芸能」に属するという表面的なジャンルの同一性と差異にとどまらず、記憶の構築プロセスにおいて、前者が集団による哀悼、後者が個人のメランコリーへの退行という特質を持っているからである。
I.『トロイアの女』における喪の儀式
1.『ハムレット』と記憶の闘争
父親の亡霊に出会ったハムレットが、至上命令として自らの身体に刻むのは、「私を覚えておけ“Remember me”」という亡霊の言葉のみである。ハムレットは劇の最初から、亡くなったばかりの父親の記憶に憑かれているのだが、それを「見せかけ“seem”」だという母親の言葉に反発して、「見せかけ」どころか、服装でも言葉でも振る舞いでも感情でも表せないような「内面の何か“that within”」が、自分にはあるのだと主張する。しかしそれを具体的に表象できないハムレットにとって、「リメンバー・ミー」という亡霊の命令が、記憶の闘争における他者──私的な記憶を公的な記憶として簒奪する政治家クローディアス、性的クーデターによって公的記憶と私的記憶の統合体制である家父長制度を脅かすガートルード、私的な記憶に埋没して狂気に陥るオフィーリア──に対する抵抗の武器を提供するのだ。さらにそこでは、亡霊の言葉を公的表象として実現する演劇というメディアの発見が決定的となる。ハムレットの「あとは沈黙“The rest is silence”」という最後の発言が観客の心に刻みつけるのは、いわば記憶のカタルシスである。なぜなら、ハムレットにとって、自らの私的な記憶を担保しているのは、劇冒頭での父王ハムレットの亡霊の「覚えておけ」という命令だけでなく、終末近くの墓掘りの場面で、王の道化ヨリックの髑髏を発見して、幼少時に父親代わりだった彼を思い出すことにある。二人の亡き「父」との出会いが、二つの過去の出現をハムレットの死という現在において演劇化し、主人公と観客とが記憶を共有する。よって『ハムレット』は、主人公の死と共同体の再興によってもたらされる悲劇のカタルシスではなく、演劇だけが可能とする記憶の共同体の創造をもって終わりを告げる特異な劇なのだ。さて、このような記憶構築のメカニズムが、今回の『トロイアの女』ではどのように変奏されているか、以下で検討していきたい。
2.神の不在
『トロイアの女』が、宗教と戦争という主題を扱うもっとも古典的な劇作品の一つであることは明らかであり、鈴木の演出もそのことを、神の「不在の実在」という永遠の真理によって示唆する。舞台にまず現れる、菩薩ともキリストとも預言者とも言えそうな「神像」(藤本康宏)は、大地のエネルギーと天空からの光輝とを一身に体現したような存在でありながら、舞台上で殺人や暴行や収奪が横行するあいだじゅう、一言も台詞を発することなく、ほぼ同じ姿勢を保ったまま立ち続けている──まるで証言する能力を拒まれた目撃者のように。それを戦争暴力に対する神々や宗教の無力と形容することはたやすいが、鈴木の独創は、舞台奥にもう一人の目撃者として「廃車の男」(加藤雅治)を配したことにある。戦後の荒廃と焼跡の象徴である廃車のなかに座り続けている男は、ときに舞台上で起こる残虐な情景に目を瞠りながら、ひたすら静止しているが、劇の最後近くになって、次のようなサミュエル・ベケットの台詞を語る──
平和が帰って来て…
頭の中に…
もう行かなくても 捜さなくてもいい…
眠ることだ…
もう求めない…
彼を捜すことを…
影の中に 彼を見ることを…
彼のことを言うことを…
今度こそ終えよう…
すでに長い生涯を…
ひとがなんと言おうと…
いくらかの不幸…
それで充分…
百年後か…
永遠にか…
もうわからないが…
歴史にもおさらば…
記憶にもおさらば… (テクストの引用は上演台本より)
後でも言及するが、この台詞に『ゴドーを待ちながら』の反響を聴き取ることは容易であり、また廃墟に佇む男の位置から「平和が帰って来て」という言葉に、敗戦後の述懐を読み込むことも十分に可能だろう。さらに、これらの言葉のなかに劇全体の基調を求めるとすれば、そのメッセージは、一方において、戦争とジェノサイドに満ちた歴史が、これまでもまた今後も永続していくだろうということであり、他方で、その歴史の断片を言語化した記憶が、つねにすでに遅延されて私たちの身体に刻まれていくということではないだろうか。この舞台上で突然にもたらされるベケットの台詞は、その世俗的な意味内容を剥奪された詩的で過剰な空虚ゆえに、意味作用を引き起こさない、意味そのものとして、私たちの耳を撃つ──トロイアの落城と日本の敗戦という二つの歴史的事実が出会うこの瞬間に、劇全体を貫く特殊と普遍とを結ぶ記憶が刻印されるのだ。このことを、劇の順序に従いながら検証していこう。
3.トロイア国家の崩壊
この作品において、トロイア国家の崩壊という劇的出来事は劇が始まる前にすでに終わっており、劇全編はその出来事を記憶によって構築することから成り立っている。神像と廃車の男という二人の目撃者/証言者の存在の無効性は、すでに出来事が終わっているという事実によっても強調されているのであって、一方の神像が徹底した沈黙によって、他方の男が突然の饒舌によって、どちらも見ることの不可避と、語ることの困難を示唆するのだ。記憶の構築が問題となるのも、まさにこの証言という行為の類いまれな(不)可能性においてである。
このギリシャ悲劇の名作に対して、鈴木の演出は、敗戦後の浮浪者を思わせるコロスに、(後述するヘカベによる葬送場面を除いて)叫びや唸りのような言語の断片以外には台詞を語らせず、この劇のアクションをすべてトロイア王家の母ヘカベとその娘カサンドラ(齊藤真紀による二役)と、その息子ヘクトルの妻アンドロマケ(佐藤ジョンソンあき)、そして侵略者・征服者である三人のギリシャ軍兵士(竹森陽一、植田大介、石川治雄)の語りによって表象することだ。それぞれが立場に従って──すべてを喪失しながらもいまだに神々を告発する能力と勇気を持った老婆、夫と息子を失いギリシャ軍の欲望の犠牲となる若き未亡人、征服者として国家と女性の身体とを恣にしながらも奇妙な感覚を併せもつ兵士たち──三者三様の記憶を構築する。また通常のギリシャ悲劇の上演においては、すでに終わった、あるいは今まさに終わろうとしている出来事を主人公や観客と共有するために、それについて語る証言者としてコロスが欠かせないのだが、この上演では彼らを無言の犠牲者である民衆として描くことによって、「語ることのできないコロス」という矛盾した形象に、民族虐殺の極限的な暴力性が孕まれるのだ。さらに、コロスの役割を饒舌なギリシャ兵と無言のトロイア人たちに分割することで、証言と沈黙の意味を際立たせる手法も注目すべきだろう。
4.歴史の断片の収集
舞台は、右後方の廃車のなかに座る男が明りのなかに浮かびあがると、下手から神像が登場して、後方の定位置に自らの身体を据える。次に五人の浮浪者の格好をしたコロス(木山はるか、鬼頭理沙、中村早香、平野雄一郎、竹内大樹)が屈んだままの恰好での素早い摺り足で登場、舞台左手に、これも坐像のように位置を占める。その後、ギリシャ軍兵士たちが剣を振り回し、足を振り上げて儀式的に登場、こちらは舞台右手に座る。彼ら彼女らのこういった運動は、上演の最後でも、ちょうど録画テープをいったん巻き戻してから、もう一度再生するようにして繰り返される。しかしSCOTの舞台が常にそうであるように、ここでも役者の身体的存在の明晰度はアナログ録画機ではなく、限りなく真正なデジタル技術のそれだ。彼ら彼女らの存在感は、まるで何度再生・コピーしても劣化しないだけの強さと光沢を保っている。複写がオリジナルと変わらないという、硬質で明澄な舞台空間の質が、歴史の反復と、それに抗う記憶の強度というテーマを、避けがたく私たち観客の感性と知性に浸潤させていくのである。
このように様々な人物の位置取りが完成した後で、いよいよ戦後の焼跡を彷徨う老婆のような格好をしたヘカベが、コロスの前方に登場して、次のように語り始める──「ああ神々も照覧あれ──頼りにならぬ神々とお恨み申してはみるものの、不幸にあえば、やはり神々の名を呼ばずにはおれぬもの」。「照覧あれ」と要請されながら、即座に「頼りにならぬ」と評価されてしまう神々は、ヘカベにとって、目撃はしても何も行動しない、証言者としても失格した存在である。すでに述べたように、エウリピデスの『トロイアの女』において、すでにトロイア戦争という劇的な出来事は完全に終了しており、劇で描かれるのは、その戦後処理、すなわち勝利者であるギリシャ側にとっては、収奪した財産の分配、ことにトロイアの女たちの誰をどの将軍が戦利品としてモノにするのかであり、敗者であるトロイア側にとっては、敗北の惨禍の確認と悲嘆の共有しか残されていない。だが、この劇を傑出したものとしているのは、主人公ヘカベがギリシャ軍兵士、および娘たちとの会話によって、歴史の断片を寄せ集め、記憶の再生に挑むからだ。そのとき彼女にとって、無言の神々は何の役にも立たない。歴史と記憶はすでに神のものではなく、人間が自らの言葉によって構築するほかないからだ。ここにこそ、ヘカベの冷徹な歴史観の理由がある。
記憶の構築というヘカベの営みについて、次の三つの場面に注目したい。まず一つ目は、母親ヘカベの嘆きが、その娘カサンドラとの対話によって相対化される場面。夫と息子を亡くし、今また娘たちがギリシャの将軍たちの戦利品として分配される知らせに直面したヘカベは、その悲しみを表明する言葉を持たなかったのだが、そこに予言能力を持っていた娘のカサンドラが登場して、ヘカベは他者の視点と言葉を借りることで、自らの想いを記憶へと変換させていくことが可能となる。ここでヘカベとカサンドラとを一人二役で演じる齊藤真紀の早変わりの技術と傑出した集中度は、見ていて鳥肌がたつほどに凄まじい。まるで高速で動く機械が静止して見えるように、彼女の身体は膨大な歴史的悲劇をその一身に体現しながら、叫ぶことも拡散することもなく、ただひたすらに内向を極めることで、復讐の刃を蓄えているように見える。彼女がその定位置から座りながらの側転で二回転し、しばらく経ってから、また元の位置に全く同じ速度と動きで戻る、まるでデジタル録画を逆回ししたような場面がある。鍛えられたSCOTの役者の水準からすれば、この程度のことは当たり前の動作なのかもしれないが、彼女の身体は寸分たがうことなく、元の位置に戻っている。これは一例に過ぎないが、この舞台はこうした時間の往還が空間の伸縮でもあることを示す瞬間に満ちており、そのことが記憶という過去と現在をまたいで時空間を操作する人間の営みの必然性を、役者たちの身体上で明示するのだ。時間の緩急によって空間を伸縮させるヘカベの身体移動の反復が、私たちの脳裏に、遅延による記憶の再構築というトポスを刻んでいくのである。
二つ目は、ヘカベと彼女の義理の娘、アンドロマケが対面する場面。アンドロマケは、アキリーズの企みによって殺されたヘクトルの妻として、今やトロイア王家再興の唯一の希望とも言うべき息子アステュアナクスを産み、その唯一の守護者として、赤子を両腕に抱えて登場する(アステュアナクスは白い布製の人形で表象されている)。へカベはヘクトルを失って絶望しているアンドロマケに、孫のアステュアナクスを立派に育ててくれれば、トロイア再興の望みもあるだろうと語る。つまり、へカベはまだここでは、過去の悲劇に打ちひしがれながらも、未来への希望を捨ててはいない。しかし、ギリシャ兵が女たちのそうした望みを一瞬にして根絶やしにしてしまう。彼らは、「ギリシャへ行こうよ」という、この壮麗な詩的レトリックが横溢する劇にはまことに不釣り合いな、軽率で残酷な口語的誘いとともに、アンドロマケの腕から子供を奪い、そして手慣れた動作で素早く彼女の帯を解いて暴行し、子供を殺害してヘカベの前に落とすのだ。父や夫や息子という後ろ盾を失った女たちにとって、「ギリシャへ行」くとは、単なる地理的移動ではない。それは、トロイア王家の人間としての血の絆を絶たれ、一人の孤独な女として異人の情欲の対象となることであり、トロイア国家とそれが支えていたすべての過去との永訣に他ならない。まさに「永遠に…歴史にもおさらば…記憶にもおさらば…」することなのだ。
三つ目は、ヘカベが孫の死体を悼む場面。兵士たちのアンドロマケ暴行が、まるで感情を全く欠いた機械のように正確で、それゆえに残酷さが際立つとすれば、それに続くこの悲惨さの極点を画す場面で、ヘカベは孫の死骸を前にして嘆くどころか、声一つ上げようとはしない。彼女は静かに子供の死体を抱きあげ、その切断された腕を回収する。この舞台でアステュアナクスを表象しているのは、目鼻のない無機質の白い人形、つまり生死を超越した物体であって、ヘカベにとって、この死骸が決定的なのは、彼女にとってそれが記憶の媒体となるからである。そのことを示すように、ここにおいて、ヘカベはついに自分が何を喪失したのか、喪の対象となるべきなのはいったい何なのかを最終的に悟るのだ。父王ハムレットの亡霊と、トロイア王家最後の男子の死体──記憶は常に、具体的な媒体の過去から現在への来訪を必要とする。だがここで大事なことは、その来訪が、父王ハムレットの場合のように死の数か月後であろうと、アステュアナクスの場合のように数瞬後であろうと、記憶の構築者にとっては、それが永遠に遅延されたものとして感得されるということだ。そのことを明らかにするために、ヘカベによるトロイア国家葬送の場面を見てみたい。
5.葬送と遅延
ヘカベによるアステュアナクス葬送の場面が、彼女の記憶の構築にとって決定的なのは、彼女の「待つ」という姿勢に関わっている。「待つ」ということの人間の身体と精神にとっての意味を考えようとするとき、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(以下、『ゴドー』)の考察は避けられないだろうし、記憶について考えるときの参照項が『ハムレット』であらざるを得ないのと同じ意味で、『ゴドー』は待つことの意味を究極的に確かめる作品である。それだけでなく、この『トロイアの女』はもとより、鈴木忠志の演劇創作の原点のひとつとしてベケットの諸作品があることを考えれば、ここで『ゴドー』を参照することも許されるだろう。ウラジミルとエストラゴンはいったい何を待っているのか? 実のところ、二人の主人公自身も自分が何を待っているのかわからないのではないだろうか。つまり私たちの考察の主眼を、存在論から認識論へと移行してみれば、ここで大事なのが、彼らが何を待っているか、ではなく、「待つ」という行為そのものの意義にあることが見えてくる。待つ、しかも誰も何もやってこないことを知りながら待ち続ける──これはもしかしたら共同体のなかで生きることを期待されている人間の究極的な、ほとんど不可能な営みではないだろうか。それは絶望とか希望といったことを超えた、安易な概念的仕分けを許さない、身体と精神の剄さの証ではないのか。とすれば、ウラジミルとエストラゴンとが西洋文明の末期的崩壊状況において、ただひたすら何かを待っているという姿勢こそに、宗教や芸術や経済や政治に関わるあらゆる力学の「以降」の思想、すなわち大きな物語が終焉した後の「ポスト」の認識にとって決定的なカギの一つとなる契機があるのだ。
ヘカベと孫の死体との対面の場は、私たち観客に不思議で曖昧な印象を与える。彼女はアンドロマケが暴行され、アステュアナクスが彼を守ろうとするコロスの一人とともに、ギリシャ兵によって惨殺される場面を見ているのかもしれないし、見ていないのかもしれない。ただヘカベは、同じ舞台平面上にあって、この残忍な情景が進行するあいだじゅう、ただじっと沈黙して耐えているだけだ、まるで何かをひたすら待っているかのように(このときの齊藤真紀の内向する身体の凝縮度を形容する言葉を、私は持たない)。ヘカベはこうして孫を殺されたことによって、トロイア再興という希望の根を絶たれて絶望に陥った、というのがごく普通の解釈だろう。しかしこの場面におけるヘカベの常軌を逸した沈黙は(ここでも『ハムレット』の「沈黙」が思い浮かぶが)、そのような解釈を超えて、普遍的な倫理の境域へと私たちを強引に誘い込む──そのときだ、彼女の記憶が、わらべうた「通りゃんせ」の楽曲と、正面を向いた神像のまなざしとともに、私たち観客の想像力に結晶されるのは。ヘカベは、孫の死体が自分の目の前に投げ捨てられるのを待っていたのだ。ベケットを介することで認識することが可能となる「待つ」という身体の構え。それは、永遠かもしれない遅延に耐え続けることに他ならない。アステュアナクスの死によって、トロイア国家再建の道が閉ざされた今、ヘカベにとって、待つべき対象はもはやない。しかしそれでも待ち続けるというのであれば、そこにあるのは他者の存在に対する未来の願望ではなく、過去へと向けた自己の認識に対する絶対の信頼に他なるまい。ヘカベの比類なき身体の強度が表出するのは、永遠に繰り延べされる過去の来訪をただ耐えて待つ、という記憶への信仰なのである。
だがさらにここで重要なことは、この瞬間におそらく演劇にしかできない仕方で、想い出が主役とコロスを含む観客によって共有されることで、「記憶」となるということだ。トロイア民族の一縷の希望であった孫を葬送する最後の台詞で、ヘカベはトロイア人たちのコロスに次のように言って、自らの私的記憶を、演劇という詩の領域のなかに解き放つ。
かくしてヘカベの記憶への信仰は、記憶の宗教となる。あらゆる人類の悲劇にとって、神や歌や文学が必要なのだ。ここにいたってようやく私たちは、ハムレットとヘカベとが、記憶の演劇化の司祭であったことを悟る。ハムレットは家族に裏切られ、国家に絶望する。ヘカベは家族を殺され、国家を喪失した。その二人が、集団的な喪の儀式を完成するには、家族でも国家でもないような中間の集団、ここで言うところの演劇的な集団が必要とされるのだ。血の絆にも民族の伝統にも頼れない、頼らない者たちが、記憶を自律させるためにこそ、演劇が要請されているのである。
6.戦争の記憶
こうしてついに自らの身体性として記憶を完成させたヘカベは、廃車の男が先に引用したベケットの台詞を語るなかで、これまでただ立ち尽くして何も介入できなかった神像の足元に行き、座る。自らの孫の葬送を経て、滅びた祖国トロイアを葬る台詞を語りながら、風呂敷包みのなかの家財道具を広げていく老婆──すべてを失いながら、それでも戦後を生きていかなくてはならない彼女が、湯呑や鍋や七輪といった日常道具を広げ始めると、アンドロマケが闇市で花を(あるいは自分の体を?)売って生きている一人の若い女となって現れる。老婆のヘカベを見つけて、そこに一瞬、歴史暴力の犠牲者同士の出会いの可能性が芽生えるように見える──「寄ってかない? あたしひとりなの」。ギリシャ悲劇に似つかわしくない口語の台詞がふたたび介入する瞬間だ。しかし老婆は少女を追い払い、袖にされた女は傍の神像に気づき、手に持ったバラの花束をその心臓に向かって投げつける。突然の衝撃に体勢を崩す神像、横倒しとなるヘカベ、そして流れる欧陽菲菲の「恋の十字路」──“あなたひとりにかけた恋 恋/I want you love me tonight”。神が私たちを愛するなどということは金輪際あり得ない。それを知った私たちは、この台湾出身の女性歌手がやや舌足らずな、甘ったるいアクセントで歌う、戦争と民族虐殺が交錯した東アジアの歴史を証言する英語と日本語の混交した歌謡曲に、歴史の不能と記憶の可能との裂傷を見て、愕然とする。そのとき「弱い私は 待つだけなのね」という橋本淳作詞による、このあまりにも俗で、まるで「男を待つ女」という東洋人女性のステレオタイプを強化するかのような歌詞が、まったく違った位相で、すなわち地理も時間もジェンダーも階級も人種も民族も年齢も超えた想像上の位置で、私たちの現存を撃つのだ。結局、私たちは「歴史におさらば」することも、「記憶におさらば」することもできないのではないか──その絶望とも希望とも言い難い感覚が、この歌を全身で引き受ける舞台の形象とともに、比類ないカタルシスとなって私たちに降臨するとき、『トロイアの女』という劇が、エウリピデスとシェイクスピアとベケットとをつなぐ地点で、戦争に明け暮れた20世紀の東アジアの、そして普遍的な人類の記憶として、私たちのもとに永久に繰り延べされながら留め置かれるのである。
なにゆえ闇市の少女の言葉が、ヘカベには届かないのか? その問いを抱く私たちは、犠牲者の同情の未了といったセンチメンタルな情動に浸ってはならない。そのような読み自体が、男性中心の「歴史」”his-story”に安住した怠惰な態度の反映だからだ。鈴木忠志の透徹した歴史解釈は、そのような感傷が全く届かない地点にある。おそらく女と老婆とはいまだに、日本の戦後闇市と、トロイア落城との二つの時間に引き裂かれているのではないか? 歴史は通底していない、断裂しているからこそ、ヘカベに代わってバラの花束を神像に投げつける女の諦念と、ヘカベの絶望とが一瞬だけ交差して、「愛の不条理と無情」という主題歌をおびき寄せることができるのだ。ヘカベと、そして無数の子どもたち孫たちを亡くした女たちの慙愧が、歴史を超えて彼女たちの想いを悼むことの不可能を知らしめす。トロイアの最後の生存者として、ヘカベを追悼するものは誰もいない。とすれば、彼女の姉妹である無数の「女」たちを悼むことができるのは、私たち観客しか居ないのではないか? そのわずかな可能性にこそ、鈴木忠志が『トロイアの女』の再演に託した、観客への贈与が際立つのである。
7.勝者の歴史、敗者の記憶
風呂敷包みのなかから自分の家財道具を取り出したヘカベは、その中から空き缶を一つ見つけて、後ろに放り投げる。死者を悼む葬礼の弔鐘のごとく響き渡る缶のうつろな音──「トロイアの最後の音」とヘカベが呼ぶ、その音響こそは、敗者の記憶によって勝者の歴史を書き換えることに成功した者だけに許された、勇気ある宣言でもあったろう。しかしそのような記憶の刻印にもかかわらず、歴史はくりかえす。舞台は、いったん退場したコロスと兵士たち、そして若い女が以前とまったく同じ動きで登場し、神像が老婆に差しのべた手は届かず、崩れ倒れそうになる身体をかろうじて支え、高く錫杖を掲げて直立した神像に、上方から眩い閃光があたって、幕を閉じる。いつになれば、私たちは歴史の呪縛から解放されて、自らの死の尊厳を他者と共有できるのか? むろん、この問いに神々が応えることはけっしてない。
II.『からたち日記由来』におけるメランコリーへの回帰
1.『ホタル』と記憶の昇華
『からたち日記由来』を記憶の構築という観点から考察するさいに、『ホタル』を参照する理由として、この二作品がともに、日本という国の近代の成り立ちを、そこから排除されてきた異者のまなざしによって見透かそうとすることがあげられる。すなわち、『からたち日記由来』は、貴族階級の家に嫁ぎながら使用人と恋に落ちて悲劇を招いた女性から見た日本の家父長制度を問題としており、かたや『ホタル』は特攻という無謀で残酷な作戦に従事させられた日本と朝鮮の若者の視点から、敗戦に至る日本帝国の軍事主義を問うているからである。
後でも述べるように、詩学による政治学の凌駕という点で、『ホタル』は端的に歴史認識において、決定的な欠陥を抱えている映画である。それでもなお、記憶の構築という観点からこの『ホタル』という映画が興味深いのは、高倉健の演じる特攻隊の生き残りである山岡が、二匹のホタルとの邂逅と、二つの「アリラン」という歌によって、記憶を昇華する過程が描かれているからだ。映画のなかで、山岡が最初に会ったホタルは、戦争中にホタルになって戻ってくるという食堂の女主人への約束を果たした、ひとりの日本出身の特攻兵のいわば亡霊である。昭和天皇の死後に、食堂の女主人から朝鮮出身の特攻兵キム(金山)の遺族に遺品を届けてほしいと頼まれた山岡は、妻の知子(戦時中キムの許嫁だったが山岡の妻となった)とともに遺族の住む韓国へと赴く。そこで、キムが日本の特攻兵として死んだ事実を受けいれようとしない遺族たちに山岡は、金山が出撃前夜、食堂で朝鮮語で「アリラン」を歌った情景を語る。映画は、金山が歌うモノクロ映像にかぶせるようにして、遺族の前で「アリラン」を日本語で絞り出すように歌う山岡の現在をカラーで映し出す。それを聞いた遺族の一人が、山岡の手から遺品を受け取り、キムがかつて知子と写して、朝鮮の家族のもとに送った写真を見せる。二人だけで丘の上にあるキムの父母の墓に詣でた山岡夫妻のもとに、一匹のホタルが訪れる。故郷を別にする二人の亡き特攻兵を結ぶホタル──それは「アリラン」を歌ったキムの過去と、それを翻訳して歌う山岡の現在とをつなぐ形象なのである。
記憶の定着という文脈において、『ホタル』の最終場面では、そののち、妻にも先立たれ、かつて自分が妻とともに漁をした旧い船が燃えていくのを、無言で凝視する山岡の姿勢が重なる。記憶を記憶として成立させるのは、遅延のトポスにおける、永久に繰り延べされていく残像である。『ホタル』における、特攻機が燃えていた過去と、船が燃える現在とが、戦争末期にキムに先立たれた知子の死への欲動を介して重複する──私たちは歴史の断片として記憶を再構成し、つねに遅れてくる過去として現在を再構築することで、記憶のレジームに参画するのである。
2.記憶に抗する身体
『からたち日記由来』という作品は、一見、荒唐無稽な、訳のわからない代物のようにも見える。鈴木忠志自身の言葉によれば「ヘンナモノが出て来ましたよ、と劇団員が古い原稿用紙の束を持って」きて、それが手書きの「講談 からたち日記由来」という舞台の台本らしく、それをもとに鹿沢信夫という作者が書いた脚本を、鈴木が演出したものだという。このエピソードの真実性は疑わしく、全てが劇団の創作であるかもしれず、そうだとすれば、偽の日記の偽の由来を語る偽の講談が基となった偽の脚本の舞台化、ということになる。それはともかくとして、『からたち日記由来』の第一印象は、ほとんどの観客にとってパロディのそれではないだろうか。島倉千代子によって人口に膾炙した、「からたち日記」という歌のさわりが、一人の女(内藤千恵子)の絶叫と、二人の男(平垣温人、塩原充知)の楽器(クラリネットとハモニカの物悲しくもどこか懐かしい響き)によって、何度も何度も繰り返される。その間隙を縫うようにして、芳川鎌子という伯爵の三女と、彼女の夫である芳川家の養子、寛治の家の車夫である倉持との禁断の恋愛と二人の心中未遂とが、チンドン屋であった母親と息子と伯父によって語られる、という体裁である。そこでは鎌子の作であるという「からたち日記」に書かれているらしい、当時の政情やメディア状況、さらにはマルクスやレーニンの言葉、日本の帝国議会での議論や新聞報道の引用などが語られる。日記という私的な記録に、「由来」という公的な文脈を添えようというのだから、これは日記のなかに書かれた記憶(あるいはその捏造)を可能な限り、正確な史実によって書きなおし、解剖しようとする、アンチ記憶物語とも言えるかもしれないし、あるいは日記という人生の痕跡が、主体や歴史のような物語を脱構築するさまを描くものとも考えられるかもしれない。
3.記憶の脱構築
ここで有効なのは、『トロイアの女』と『からたち日記由来』を記憶の構築をめぐる連作、というか合わせ鏡のように逆転した表象として捉える視点だ。やや図式的になるが、整理を試みてみよう。第一に、『トロイアの女』が記憶の構築をめぐる劇だとすれば、『からたち日記由来』は、記憶の脱構築、すなわち記憶が記憶として構築される過程を逆照射し、すでに書記化されて歴史となっている日記を学び捨てる試みである。脱構築とは、単なる破壊や解体ではなく、ある構造が構造として成り立っている根拠を問う、まさに「由来」をさぐる営みだ。「西洋的主体」とか「啓蒙的人格」とか「個人の記憶」とか「民族の伝統」とか「国家の歴史」といった構造は、「つねに半分はそこにはなく、もう半分はそうではない」(ガヤトリ・スピヴァク)痕跡のような何かであることが、脱構築によって暴かれるのである。まさにこのような脱構築的な構造を内包することによって、この舞台には外部の雑音(チンドン風の音楽、新聞記事の引用、国会議員の議論など)が介入する余地と役割が生まれる。『トロイアの女』の基調が、沈黙という永遠に繰り延べされる言語表象にあるとすれば、『からたち日記由来』は饒舌によって、記憶と記録の不安定性を暴いてしまうのである。
第二に、二作品の空間造形のあり方も対照的だ。『トロイアの女』が斜めと上方からの照明、および役者たちの平行移動の繰り返しによって、空間の拡張をその特徴とするとすれば、『からたち日記由来』の三人の役者は、屏風を背景にした三畳ほどの空間からまったく移動せず、劇中ひたすら座り続けている。照明も、舞台に置かれた下方からの箱型照明によって、役者たちが浮かび上がるだけなので、空間がきわめて縮まった印象を与える。そしてそのような閉鎖空間でこそ、ある甘美かつ悲惨な思い出を過剰に内心に抱えてしまったあまり、狂気に陥らざるを得なかった、主人公鎌子を囚えている心理的呪縛が際立つのだ。つまり、『トロイアの女』と『からたち日記由来』という連作を、「狂女物」としてジャンル分けすることには正当性があるとしても、それぞれの狂気の様相は全く正反対のベクトルを抱えている。すなわち、言語化しようのない悲劇を体験した二人の女性という点では共通するが、一方のヘカベはあくまで狂気を抑制することで、他方の鎌子は狂気を発現させることで、ともに記憶を記憶たらしめている詩と政治上の力学を明らかにするのである。
第三に、人物相互の関係について。『トロイアの女』は、主人公ヘカベを囲む人物たち(神像や廃車の男、アステュアナクスの死体を含む)が、それぞれ独自の反応をヘカベから引き出すことによって、ヘカベによる記憶の構築が成される。すでに論じたように、コロスが観客の代表として、ヘカベによる葬送の儀式を完成させることは、集団による喪の実現として重要である。それに対して、『からたち日記由来』における三人の登場人物である、かつてチンドン屋をやっていたという母親と息子と伯父は、それぞれが幾多の役柄をほとんど無原則に演じる。であるから、たとえ物語の主人公は芳川鎌子であったとしても、私たち観客は誰か特定の人物に感情移入したり、特定の役者と登場人物とを同一化して鑑賞することを阻まれている。まるで三人の役者が様々な人物を勝手に演じながら、互いの関係はほぼ並行で、誰がより重要とか劣位にあるとかいうことはない。彼女たちの役にはほとんど切れ目がなく混線しており、誰が誰なのかさえ判然としない。それぞれがまったく孤立した状況は、最初から最後まで変わらず、その意味では、たしかにまるで、三人が三人ともそれぞれの「狂気」のなかに埋没しているかの如くであり、何らかの集団的な営みが築かれる可能性は絶たれているのである。
言いかえれば、劇構造として、『トロイアの女』がツリー状であるとすれば、『からたち日記由来』はリゾーム状とでも言えようか。前者は、ヘカベを中心に、彼女と他の人物たちとの対話によって成り立っており、その周りをトロイア市民が囲むという、集団性に親和的な構造を持っている。後者では、そもそも対話が何一つ成立しておらず、三人の役者が雑多な登場人物の個性に従って演技している様は、まるで「日記」という一つの人格の精神分裂症を、三人が分身の術によって演じているかのごとくである。
『からたち日記由来』の主人公である母親は狂気に陥っているという設定だが、この劇で対立しているのは正気と狂気ではない。対立や葛藤があるとすれば、それは物語と記憶との、身体と表象との、時間と空間とのあいだにある。「日記」というあくまで私的で詩的な表現手段が、「由来」という記憶の操作を暴く探究によって脱構築され、記憶が歴史によって反攻されているのだ。しかもここでの歴史は、勝者のそれでも敗者のそれでもなく、チンドン屋や政治屋や新聞記者のそれであって、嘘と捏造と虚飾の表象である。そのような虚偽に対峙するのは、階級差別と家父長制度の暴力に抗う芳川鎌子の純愛のはずだが、その記憶もこの劇では、「由来」を暴こうとするジャーナリスティックな窃視の前に、自暴自棄な「からたち日記」の絶叫によって乱反射するほかない。
しかしそのようなパロディと溶解のなかでも、唯一、身体の一部によって、かけがえのない記憶の媒体を記す場面がある。この世では遂げられぬ身分違いの恋に落ちた鎌子と倉持が覚悟の心中で選んだ死に場所は、鉄道線路の上だった。倉持は亡くなってしまったが、鎌子は怪我をしただけで生き残ってしまう。ただそのときの怪我で、彼女は「左耳朶」をひきちぎられてしまうのだ。この事件を伝える新聞記者の電話報告が語られた後で、舞台上の女はいつの間にか髪を掻きあげたのか、それ以降、右耳が観客に見えるようになる。勿論ひきちぎられたのは左耳であるから、右耳は完全な姿で存在している──目の前の現実の耳の存在が、失われたもう一つの耳の認識を喚起するのだ。鎌子の切断された/されていない耳、それはちょうど亡霊や死骸のように、記憶を喚起する媒体としての、不在を証する実在である。すでに失われたものが、そこにあるという感覚、これは喪失の記憶を、喪の儀式によって代替する情動ではないだろうか。鎌子は自らの耳を失ったことにより、本来悼むべき対象が何であったのかを知る。こうして『からたち日記由来』は、からたち日記という書記ではなく、耳の実在に賭けることで、記憶のありかを取り戻そうとするのである。
4.「由来」のメランコリー
母親の台詞によると、心中事件後、尼僧となって山奥に隠棲した鎌子の死後、偶然に押入の片すみに、一冊のノートが発見される。そのノートのどのページにも涙のあとも鮮やかに、次のような同じ文句のうたが書かれていたという。
このまま 別れてしまってもいいの
でもあの人は 淋しそうに目を伏せて
それから思い切るように 霧の中へ消えていきました
さよなら初恋
からたちの花が 散る夜でした*
これは島倉千代子の「からたち日記」における語りの部分だが、「このまま 別れてしまってもいいの」という表現は、「私」が「別れてもいい」と「あの人」に肯定するとも、「あの人」に「別れてもいいのか」と質問するとも、あるいは「私」が独白として「別れてもいいのだ」と納得しているとも取れる曖昧な表現である。にもかかわらず、初恋の相手である「あの人」は去ってしまった。この「うた」が語る物語は、自分よりも他者の意志に基づく思い出なのだが、それが「由来」という演劇として、すなわち観客と共有される記憶として構築されるために、狂気やチンドンの音楽や、様々な言説の引用が必要とされるのだ。ここにおそらく、鈴木忠志とSCOTが、やや入り組んだテクスト創作の仕掛けを盛り込んだ理由がある。承認でもあり問いでもある「別れてもいいの」という日本語特有の両義性を利用する、この「うた」の主人公にとって大事なことは、彼女がそのときどう思ったかではなく、恋人が消えていったという事実の認識なのだ。この「うた」がノートのページに繰り返し書かれ、そのたびに彼女が新たに涙を流した、という反復によって、日記は物語の支配圏から脱することができる。表象記号とは、つねにすでに事象に遅れることで、意味とその余白を生み出す。繰り延べされた書記行為によって、涙は痕跡となり、反復によって想い出は記憶となるのである。
過去を「過去」として終わらせず、永遠に繰り返し延長させることによって、繰り延べされる現在──『からたち日記由来』は、反復と遅延によって、物語を脱臼させ、物語性を剥奪するという点で、言葉の真正な意味で「劇的」である。そこには起承転結はおろか、人物相互の関係の発展もほとんどない。絶妙なタイミングで繰り出される田中首相に対する野次、「当たりまえだ!」が一例だが、それは野党の国会議員の発言という文脈を超えて、まったく別の演劇空間をそこに作り出してしまう。鎌子の恋愛や心中事件という物語を切り刻む数多くの台詞が、既存の文脈を脱臼させる効果をはらんでおり、それはちょうど伯父が絶妙な音感でくりだすクラリネットの響きにも似て、間と間のさらにあいだを微分していくのである。雑多な人物たちの様々な時空間における発話を断片として無造作に羅列し、その中核にあるはずの「からたち日記」から劇的効果を簒奪することで、かえって劇としての分節化をはたすこと。ここにおいて文字は、いわば文字化される以前の純粋な言語記号、まさに「言の葉」となって「からたち」の花弁のように散るのだ。「由来」とは、まさしく原因を訪ねることだが、その原因がやはり言葉によってしか説明できない以上、日記の由来を問うとは、日記に書かれた言葉を断片的にしか把握できない出来事のなかに差し戻すことに他ならない。さらに、その出来事も言語記号によっては十全に把握できない以上、劇は日記が捏造した物語性をこよなく回避し続けて浮遊し、叫びと怒り、雑音とつぶやきの間に拡散していくほかないのである。
舞台は母親が、「からたち からたち からたちの花」と絶叫するところで終る。その直後に、遠くから聞こえてくるように流れてくる島倉千代子の歌「からたち日記」──特定の世代の日本人にとってあまりに耳慣れた、昭和33年発表のこの歌謡曲がここで喚起する感情は、絶叫や雑音のあとで、やっと真正な唄が登場した、という安堵に近いものかもしれない。ひとりの悲劇的な女性の生涯の記憶が、由来をたどることによって脱構築されてしまった時、そこに残るのは、私たち観客自身の、このあまりに有名な曲に寄せる感傷に過ぎない。日記のなかに書かれた私的な記憶が相対化された後、その空白を埋めるものは何か? その役割を新聞記事や国会議員の演説が果たすということは、当然のことながらあり得ない。結局のところ、それは「からたち日記」という歌を聞いている私たち観客自身の、曖昧な情動であるほかはない。「からたち日記」という真正なアレゴリーによって喚起された感傷は、失ったものが何であるかの記憶を喪失するという擬態のメランコリーへと、私たちを追い返してしまうのである。
このようなメランコリーへの永劫回帰を情動として喚起するのに、島倉千代子の「からたち日記」ほど相応しい歌はない。一度でもこの歌を聞いた者は、この歌の、あるいは島倉の奇妙に間延びした、不思議な魅力の虜になってしまう。演歌ともポップスともつかない、強弱もリズム感も欠如した、楽曲とのズレを増幅していくかのような歌詞──ほとんど無感情で、どこで息継ぎをしているのかもわからず、手拍子を決して受け付けようとしない歌。その齟齬と不整合とが、まるで時制を完全に失ったかのような茫漠とした思いを聞く者の心に広げていく。『トロイアの女』の最後を飾る欧陽菲菲の「恋の十字路」が、その三拍子の強烈なリズム感によって、恋愛や戦争や東アジアといった認識対象の断裂面を過激に暴いてしまうのに対して、島倉千代子の「からたち日記」は、その取りとめのない寄る辺なき感傷によって、メランコリックな情念への埋没の軌跡を描くことで、過去が終わらずに現在に陥入し続け、現在が決して未来へとは至らないような記憶の在りかを、かえって正確に指し示すのである。
5.演劇における喪とメランコリー
「記憶する」という行いは、「思い出す」というノスタルジア(時間的に遊離した対象への憧憬)に満ちた行為を、メランコリー(時間的に近接した対象への想いでありながらも、具体的にその対象が何であるかが把握できない状態)という情動の回路をいったん通すことによって、モーニング(個人としても共同体としても、亡くしたものを認知して喪に服することが可能となる情況)へと変換する営みである。かくして記憶は、目に見えないもの、言語化を拒むもの、実際には体験していないことをも可視化するという観照(テオリア、すなわち演劇(テアトル)の原義)を可能とする。そもそも国家の喪失や民族虐殺、家族の離散や心中といった極限的な出来事を、当事者(=死者)の視点から語ることはできない。だからこそ私たちは、生き残った者として、証言者を招請し、ともに喪に服する可能性を模索する。フロイト心理学によれば、記憶とは、何を喪失したのかがわからない状態であるメランコリーが、喪の対象を発見して悼む能力を回復した人にもたらされる恩恵だ。この意味で、『トロイアの女』は、沈黙という永遠に繰り延べされた言葉による集団的な追悼への道程であり、『からたち日記由来』は、つねにすでに記憶として言説化され書記化された喪の記録を、雑居性の干渉によって再び個人のメランコリーへと返す遊戯なのである。
鈴木忠志の舞台はつねに空間の造形を重視する。それを可能としているのが、SCOTの役者たちの強靭な身体と、精巧な照明技術であることは言うまでもないが、それらを活かす鈴木の演出において、言語は二次的な役割しか果たさない。言語は、物語の手段でもなく、ましてや感傷への誘惑でもなく、演劇の空間を阻害したり、それに介入したりするものとして捉えられている。その言語と空間との交渉から現れ/洗われてくるものを、「劇的身体」と呼んでもいいが、ここでの言語は、書記作用や意味作用の記号としてあるというよりは、そうした力学に抵抗する言葉の軋みに近い。ヴァルター・ベンヤミンであれば、それを翻訳という営みの狭間に出現する「純粋言語」と呼ぶだろうが、そのようないまだ歴史や記録として整序される前の(あるいは永遠に整序を拒む)言語の断片ないしは兆候こそが、SCOTの卓越した役者たちによって解き放たれる言葉の潜勢力なのだ。二次的な言語が一次的な空間に介入しようとするときに(あるいは介入を阻まれるときに)、生まれてくる身体のきしみ、振動のようなものが、劇的契機を創り続けていく。しかし、鈴木の舞台ではそれが意味作用とは隔絶した〈言葉=身体〉によって断ち切られる瞬間が必ず訪れる。『トロイアの女』における加藤雅治のどこからともなく流れだしてくるベケットの語りがその一つであるし、『からたち日記由来』における塩原充知による不意の発声もそうだ。これらの「邪魔」は、まさに邪な魔の瞬間の訪れとして、物語と意味を断ち切り、劇を壊すと同時に創るのだ。
このような鈴木の舞台哲学と実践は、「自然に鏡を掲げる」という(リアリズムとは対極にある、意味への挑戦としての)ハムレットの演劇観に隣接すると思われるが、最後にふたたび『ハムレット』と『ホタル』に言及して、記憶をめぐる詩と政治の関係に触れて閉じることとしよう。
『ホタル』における歴史認識は、個人の記憶に焦点をおくあまり、歴史の現実に目をつぶるものであるとして批判されるべきである。戦争におけるあらゆる兵士の死は、国家暴力による殺人であり、国家を奪われ民族の尊厳を侵された植民地出身の兵士の場合、彼らは二重に暴力の被害者である。かりに金山のように「大日本帝国のためではなく、朝鮮民族のために、愛する、ともさんのために死んでいく」と言い遺した、朝鮮半島出身の特攻兵が居たとして、それが日本と朝鮮の和解の象徴であるなどと考えるのは韜晦にすぎないし、戦後も朝鮮や台湾といった日本の植民地出身の兵士に全く何の補償や謝罪がなされていないという事実を隠蔽するものでしかない。この映画の問題は、日本のホタルと朝鮮のホタルとの時空を超えた飛翔が、記憶を創る遅延のトポスによって、記号による現実の、シンボルによるアレゴリーの、詩による政治の、消去を招いてしまうからだ。端的にここにあるのは、詩的な美学と、政治的な倫理との対立である。このように戦争や暴力をめぐる記憶の詩学は、ときに政治学を凌駕してしまうことがあり、その例は、『ビルマの竪琴』から『シンドラーのリスト』まで枚挙に暇がない。『ハムレット』における狂気と演劇と沈黙の意義が問われるべきなのは、ここにおいてだ。父親の亡霊に出会ったハムレットは、過剰な記憶の重荷を背負うために狂気を装い、私的な記憶の公的な証しを求めて演劇という手段に頼る。それによって観客は、舞台上でも舞台の外でも証言者として、かけがえのない記憶の分有に預かることができる。「後は沈黙」というハムレットの言葉は、金山の遺言とは対照的に、「民族」とか「万歳」とか「情念」とか「物語」といった歴史が捏造する意味とは無縁の、演劇的な誘いなのである。
『トロイアの女』と『からたち日記由来』という連作が、歴史というあくまで残酷な出来事の記録の政治性を、役者の身体に充溢する記憶に耐える詩の力によって相対化できているのは、まさにそれが、亡霊たちによる「私を忘れないで」という願いに応答しているからではないだろうか。哲学者テオドール・アドルノによる、「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮だ」という言明は、詩や芸術の政治学の考究として、ひとつの極北を示すものだろう。戦争や虐殺、破壊と搾取、暴力と剥奪──21世紀に継続する悲惨な出来事に応答する手段として、詩はあまりに無力なだけでなく、被害者や当事者の営みとかけ離れている。それでも、無数のホロコーストやヒロシマの後にも、野蛮であることを免れない詩は書かれてきたし、今後も書かれていくことだろう。それが詩の政治学における希望であり、政治の詩学における倫理であるほかない。そして、演劇が、ことに鈴木忠志のそれのように、時代の個別な出来事と向き合い、そこに物語を超えた空間を創造することを目指してきた演劇が、そのような野蛮さと向き合うとき、そこに一瞬ではあれ、普遍が輝く──寡黙な神像に当たる光のように、饒舌な日記を飾る音のように。
*「からたち日記」(作詞=西沢爽、作曲=遠藤実)