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 TPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)で2度目のタン・フクエン ディレクションはシンガポールのパフォーマーにフォーカスした内容だった。フクエンは、シンガポール生まれで現在はバンコクを拠点に、コンテンポラリー・パフォーマンスのドラマツルク、キュレーター、プロデューサーとして活動している。2015年のTPAMでのディレクションでは、フィリピンやインドネシアから3人のパフォーマンスアーティストを紹介した。その際、複雑な政治性を含む東南アジアにおけるジェンダーや身体の文化的変容が主要なテーマとされた。そして2回目の今年は、彼の故国、まだ若いシンガポールから、生きのいいパフォーマーたちを連れてきてくれた。

タン・フクエン Tang Fu Kuen,  Photo: Masanobu Nishino
Tang Fu Kuen, Photo: Masanobu Nishino

 全5組のうち、次の4組を見ることができた。

  • ホー・ルイ・アン『Solar: A Meltdown』
  • タラ・トランジトリー aka ワン・マン・ネイション 『//gender|o|noise\\』
  • ダニエル・コック/ディスコダニー & ルーク・ジョージ 『Bunny』
  • チョイ・カファイ 『SoftMachine: Expedition』

 いずれも、今私たちが生きている世界に直結した問題を、どうにか咀嚼して超克しようという意思が見られる力強い作品だった。
 それぞれについて、詳しく見ていこう。


 

Ho Rui An "Solar: A Meltdown", TPAM 2016,  photo: Hideto Maezawa
Ho Rui An “Solar: A Meltdown”, TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa

1 ホー・ルイ・アン  
 Ho Rui An

      『Solar: A Meltdown』 

             (2月7日、KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ) 

 ホー・ルイ・アンが行ったのはレクチャー・パフォーマンス。これが実に秀逸だった。レクチャー・パフォーマンスという形式は、日本で見かけることはかなり少ないのではないかと思うが、たとえば、2015年の2月に早稲田大学演劇博物館の招聘でジェローム・ベルが行った『ある観客/ Un spectateur』が、まさにそれであり、語りの面白さが炸裂したパフォーマンスだった。もともとジェローム・ベルは、自分の作品をレクチャーするのが好きなようで、これまでも早稲田に招かれて何度もレクチャーを行い、その語りの面白さは日本でも知られていた。『ピチェ・クランチェンと私』も、レクチャー・パフォーマンスの変形だろう。ベル自身が抜群の話芸の持ち主であり、それを楽しめる部分も大きかった。

 ホー・ルイ・アンの場合は話芸というよりは、周到に用意されたテキストと映像の面白さで引き付けるタイプだった。舞台には簡素なレクチャー台とスクリーンだけ。大袈裟な身振りは交えずに、それこそ講義のように淡々と語り続ける。でも、ホーが語るテキストはそれだけをとってみても明確な構造をそなえ、含蓄に富み、「植民地主義に於いて隠蔽された〈汗〉の記号論的分析」というタイトルの論考といっても十分通用するようなものだった。

 タイトルにある〈Solar〉つまり太陽とは、帝国主義が最後の輝きを放っていた20世紀初頭、南方の地におもむいた白人たちをジリジリと照らしていた太陽。白人たちは太陽のもとで〈Meltdown〉つまり汗を流して溶けていった。だが、ホーがことさらにその2つ、太陽と、汗をかく身体を強調するのは、それが徹底して隠蔽されていたからだ[1]。熱帯の強烈な日差しの下、パリっとした白いシャツですっくと立つ白人たちは決して汗をかかない。どんなに汗をかいても、それを見せない、いや、それはないとされる。エリザベス女王がかつての植民地ナイジェリアを訪問したときも、まったく汗を感じさせずに優雅に手を振っていた。ホーは、そうした映像を畳みかけるように見せながら、熱帯の焼け付くような地で、力を誇示し優雅に振る舞わなくてはならない白人たちの滑稽な姿を暴いていく。照りつける太陽を跳ね返すために帝国の男たちは白の中の白で身を包み自らが太陽のように輝こうとした。いかにも探検隊らしい真っ白なサファリスーツに身を包んだ西洋人が、いかにも熱そうな熱帯雨林の中で、やせ我慢しているとしか思えない写真を何枚も見せられると、苦笑せざるを得なくなる。

 ホーが最初に採りあげたのは、1920年代にアメリカとオランダが共同で行ったというニューギニア遠征の話だった。その遠征でのアメリカ側の考古学者マシュー・スターリングがまとめた記録映像『By Aeroplane to Pygmyland(ピグミーの地への空の旅)』は、多くの人を魅了したという(それで大儲けしたスターリングはこの遠征の後、スミソニアン協会アメリカ民俗学局長となる。この映像は現在、スミソニアン協会図書館のサイトで見ることができる)。その映像を見せながら、これはウソだとホーは言う。映像では彼らはさっそうと空を飛んで探検していたように見えるが、実は大部分は暑い地上を汗でべとべとになりながら歩いていたのだ。映像には、したたる汗はまったく映っていない。

 「汗は帝国の歴史の残余であり過剰である」・・・・・・時折このような記号論的なフレーズを、さりげなく交えながら、ホーは淡々と進めていく。その歩みの力強さには帝国主義や植民地主義の欺瞞をさらそうという強い意思を感じた。

 実は汗を隠蔽するための装置があったのだ、としてホーが指摘するのが、女性と現地労働者。植民地に送られた妻や女性たちの任務は、安全でさわやかな家庭を植民地に作り出すことだった。現地の人々と交歓しすべてを包み込む限りない愛をもった彼女たちは、グローバリゼーションの始祖となるだろう。また、かつてプンカワラ(punkahwallah)と呼ばれた現地労働者たちが、巨大な扇や団扇で主人たちに風を送っていた。今やプンカワラは廃れたが、故国を出て、香港、シンガポール、ドバイなどの超近代都市で家政婦として働く人たちが、同じように汗を隠蔽し世界を回している、とホーは指摘する。

Ho Rui An "Solar: A Meltdown", TPAM 2016,  photo: Hideto Maezawa
photo: Hideto Maezawa

 この時、ホーが幾度も口にしたのが “global domestic” という概念だった。グローバル(世界的)とドメスティック(家庭・国内的)という逆の単語が結ばれたこの不思議な言葉は、「グローバル化した〈ウチ〉」とでも訳したらいいのだろうか(字幕では「グローバルな家政」だった)。男たちの植民地・帝国主義運動を支えていたのは、男たちの汗を隠蔽して優しく包む家庭の存在であり、それを女性たちが作っていた、あるいは作らされていた。それが拡大し、あらゆるものを優しく包み、あらゆるものとコミュニケーションしようとするグローバル化した家庭に至るだろう。その世界は、その中心にいようとする者にとって許し難いものは排除する疎外の空間でもある。それを今、私たちはグローバリゼーションと呼んでいるのだ。

 グローバル化すればするほど、開かれれば開かれるほど、疎外が拡大する。それまで淡々と語っていたホーが、最後に、強い口調でそう言う。かつて隠蔽されていた太陽と汗は、いまだに隠蔽されているのだ。だから太陽と汗に基づいた共同体に立ち戻らなくてはならない! ホーは静かに強く訴える。

 今、EU諸国や日本、アメリカ、オーストラリア等では、グローバリゼーションへの疎外感から偏狭なナショナリズムに向かう短絡的傾向が抬頭してきている。ホーの訴えはそうした傾向に答えられるだろうか。太陽と汗の復権は阻害的なグローバリゼーションに対抗できるだろうか。その答はホーの提言を受けて、ぼくたちが見つけて行かなければならない。

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[1]「メルトダウン」とは原子炉の「炉心溶融」を指すインフォーマルな用語であり、炉心溶融が各地で散発し始めた60年代から使われたらしい。もちろんホーは比喩的に用いているわけだが、戦後の新しい帝国主義の軍事力を支えていたのが核であり、しかもメルトダウン等の核事故は徹底して隠蔽されたことへの隠喩の意味もあると思われる。3.11の直後にメルトダウンが実際は起きていたのに隠蔽されていたことは、日本も、いわば「核-帝国主義」の一員であったことを私たちに自覚させた事件であった。

Ho Rui An "Solar: A Meltdown", TPAM 2016,  photo: Hideto Maezawa
Ho Rui An “Solar: A Meltdown”, TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa


Tara Transitory aka One Man Nation, "//gender|o|noise\\" , TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa
Tara Transitory aka One Man Nation, “//gender|o|noise\\” , TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa

2 タラ・トランジトリー aka ワン・マン・ネイション
Tara Transitory aka One Man Nation

『//gender|o|noise\\』

                              (2月11日、BankART Studio NYK 2階。2月12日、AMAZON CLUB)

 タラ・トランジトリー aka ワン・マン・ネイションの「aka」は、also known as =「またの名を・・・」の略で、Tara Transitory が彼女の名前のようだが、transitory = 「つかのま」という姓はもちろんステージネームだろう。One man nation は彼女のソロ活動名のようで、2001年頃からパンクミュージシャンとしてこの名で活動を始めたという。作品タイトルもまたやっかいで、genderとnoiseの間に謎めいた o がある。

 パフォーマンスは2部構成。第1部はプレゼンテーション(2月11日)、第2部はライブ(2月12日)。そのどちらが欠けても彼女の意図は不明確になっただろう。

 第1部のプレゼンでは、彼女のビデオ作品や、各地で行ったライブの映像を映しながら、自分が何者なのか、何をしてきたのか、何をしたいのかを話した。最初の映像でタラは、巨大都市シンガポールの片隅の軒下にしたたり落ちる雨の音などを録音して歩いていた。そうして、草木が生い茂る空き地の真ん中に機材を設置して、サンプリングした雨音などを使ってひとりで演奏をはじめた。これはノイズ・ミュージシャンとしての彼女のドキュメンタリー。ノイズというと無機質で耳障りな雑音をかき鳴らす音楽と思われているかもしれないが、実際は彼女のように、世界のあちこちに生まれている音をていねいに集めて送り返すような作業をしているアーティストも多い。左腕がタトゥーで覆われているパンクな彼女も、そういう繊細なノイズ・ミュージシャンである。

 別の映像では、トランスジェンダーのリーダーという彼女のもうひとつの面が見られた。タラは、アジアの様々な町を訪れて、トランスジェンダー、トランスウーマンに関わる人たちと様々なイベントを行っている。ビデオには、サイゴン(公式にはホーチミンだが、タラたちはサイゴンと言っていた)でのハプニング・イベントが映っていた。トランスジェンダーの仲間たちと数台のバイクでスピーカーや機材を運んで、路上に即席のステージを作る。車が行き交う中で、タラが爆音ノイズの雄叫びをあげると、仲間のダンサーが道の真ん中に火の輪を作ってその中で踊り出す。道の向こうのオープンテラスのレストランの客たちは大喝采。もちろんベトナムの道路交通法に違反するのだろう、ライブが終わるとタラたちは大急ぎで撤収した。タラたちはまるでいたずら好きな子どものように楽しそうだった。

photo: Hideto Maezawa
photo: Hideto Maezawa

 タラは現在の関心事を、ジェンダーとノイズとリチュアル――社会的な性と雑音と儀式――が出会う場の探究と言っていた。それが次の日のライブで実現されるとも。

 そのライブは次の日の夜9時から、BankARTの近くにある AMAZON CLUB という秘密クラブ風のバーを借り切って行われた。8畳ほどのフロアに、昨日のビデオで幾度か見た同じ機材が用意され、数十人の観客がびっしりとタラを取り囲んでライブが始まった。ノイズとはいえ、不快な音を重ねていくようなものではなくて、アンビエントノイズに近い。雨だれの音が刻む ♪・♪♪・ という5拍子と、遠くでうねる音の波がひとつになって、ミニマルな繰り返しが続く。

 前日にタラが言っていたように、このライブは儀式でもあるのだろう。もちろん、タラは必死にボードを操作するだけで、儀式めいたことを行うわけではない。堆積していく音の厚みがまして、次第に高速になる打音に導かれて、ゆっくりと何かが高揚して行き、最後にタラはトランス状態で叫び声をあげた。

 ジェンダーとノイズとリチュアルの関係をタラはどう捉えようとしているのか、ジュディス・バトラーを手がかりにして少し考えてみよう。ジェンダーを規定するものがセクシュアリティも生物学的な性(セックス)も生成するという、驚くべき逆転の発想をバトラーが提示してから既に20年以上。ジェンダーにとって何が本質なのか、いや、そもそも本質などないのだ、という議論は未だに続いているようだが、少なくとも、ジェンダーがパフォーマティヴな行為だというバトラーの主張に共感する人は多くなったと思う。「ジェンダーは結局、パフォーマティヴなものである。つまり、そういう風に語られたアイデンティティを構築していくものである。この意味でジェンダーはつねに『おこなうこと』であるが、しかしその行為は、行為の前に存在すると考えられる主体によっておこなわれるものではない」(『ジェンダー・トラブル』竹村節子訳、青土社、58頁)。主体が行為の前にあるわけではないという事態は理解しづらいものだが、私たちはほうっておいても人間になるわけではなくて、言葉やしつけや矯正によって、一定の容認される行為を行える存在となることでようやく主体が立ち現れるのだ。社会的属性の束が主体のアイデンティティを構成し、そのひとつであるジェンダー・アイデンティティも、日常的な反復行為によって構築され、維持される。女の子ならこうしなさい、男の子だからこうしなさいという矯正から、“すべての女性が輝く社会づくり”という強権的な強制まで、反復されるメッセージは至る所にあり、私たちはそれにしたがうことで、ジェンダーを獲得する。「ジェンダーは、どんな意味で行為なのか。他の儀式的な社会ドラマと同様に、ジェンダーの行動には、反復されるパフォーマンスが必要である。この反復は、すでに社会的に確立されている一対の意味の再演であり、同時に再経験である。それはその意味を合法化するための、日常的で儀式的な形態である。男や女のジェンダーに様式化されることによって、それらの意味を演じるのは個々の身体である」(同、246頁)。どのように演じなければならないかは、既に規定されていて、そこから逃れることは容易ではない。ジェンダーは「公的」な行為様式なので、私的言語が意味をなさないように、私的な反復様式も意味をなさないのだ。だが、ジェンダーがパフォーマティヴであるからこそ、それをずらし、擾乱する可能性がかろうじて存在する。パフォーマティヴィティに焦点を当てるバトラーの戦略はそこにある。「ジェンダーの規範は結局、幻」なので、「反復が失敗する可能性のなか」、「永続的なアイデンティティという幻の効果がじつはひそかになされる政治的構築にすぎないことをあばくパロディ的な反復のなか」等に、「ジェンダー変容の可能性が見いだされる」(同、248頁)

 タラにとって、ノイズがその「ジェンダー変容」の可能性なのかもしれない。雑音ばかりではなく、そこにいつでもある雨音などをていねいに拾い集め、正統的な音楽によって矯正されてない音を創造するのがノイズの真髄だとしたら、タラがやろうとしているのもそれだ。ノイズが直接ジェンダーにかかわるわけではないが、規範からズレて行こうとするノイズを、最初はそっと置いてみて、それを幾度も反復してみながら、それが十分に再経験可能な様式になりつつあることを確認して積み重ねていく。それがパロディ的な反復行為としてのパフォーマンスのひとつとして行われている。たんに規範や基礎が幻であり偶発的なものであることを暴くのではなくて、新しい様式を作り、それをパロディ的に楽しんでしまおうという、そんな軽やかな開放感さえも感じられるパフォーマンスだ。東南アジアのトランスジェンダーを牽引していこうとしているタラには、いたずらに擾乱を引き起こすような攻撃性ではなくて、一緒に生きていこうという前向きさと真摯さと、そして希望が感じられた。

Tara Transitory aka One Man Nation, "//gender|o|noise\\" , TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa
Tara Transitory aka One Man Nation, “//gender|o|noise\\” , TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa


 

Daniel Kok / diskodanny & Luke George, "Bunny" , TPAM 2016 , photo: Hideto Maezawa
Daniel Kok / diskodanny & Luke George, “Bunny” , TPAM 2016 , photo: Hideto Maezawa

3 ダニエル・コック/ディスコダニー & ルーク・ジョージ 
Daniel Kok / diskodanny & Luke George

『Bunny』

                                                                                                (2月10日、BankART Studio NYK 3階)

 ダニエル・コックは既に2作品を日本で上演している。2012年のフェスティバル/トーキョー12での『ゲイ・ロメオ』では、出会ったゲイの友人たちからのひとつひとつのプレゼントからパフォーマンスを展開し、最後には友人や観客を歓待するためのポールダンスを披露した。2013年のTPAMでの『Q&A』では、どのようなタイプのダンスを見たいのかアンケートをその場で行い、その結果を元に、観客を楽しませるダンスを踊って見せた。それはダンスを見るという行為全体を俯瞰するパロディのようにもなった。このようにコックには、観客とのやりとりを取り入れるだけでなく、観客が望むものと、それを与えようとするパフォーマーとの関係を分析しようとする志向があった。いわば「贈与と歓待」の身振りであり、今回の『Bunny』もその延長上にある作品といえる。ただし、もはや客はおとなしく席に座ってはいられなくなるのだが。

 ルーク・ジョージは、オーストラリアのパフォーマー。彼等2人は、“縛り” のプロから手ほどきを受けたという。日本の伝統技術とも言える “縛り” は、ボンデージだけでなく、セーリングやロック・クライミングでも通用する基本テクニックを持っている。タイトルの “bunny” とは、縄で縛られた人を指すボンデージ用語だという。

 BankARTの3階、打ちっ放しのコンクリートががらんと広がるスペースの中央を観客が取り囲んだ。あたりには、縛られたテーブル、縛られた掃除機、縛られたぬいぐるみ、縛られたバケツなど、ありふれたものがていねいに縛られて散らばっている。色鮮やかなガウンを羽織ったルーク・ジョージが、ダニエル・コックを開演前から縛り続けていた。開演時間になってもそのまま縛りが続き、ようやく縛り終えると、コックがゆっくりと吊されていった。ひとりの人間を安全に吊り下げるには、過剰な力が一部分にかからないように力を分散させなければならない。そのためにていねいに慎重に縛る必要があるのだ。少しも歪むことなく水平状態で浮かんでいるコックの体は、わずかな力でもゆっくりと回転を始める。ひと仕事終わったジョージは、今度は自分自身を縛り始める。コックの回転が止まりそうになると、ジョージが「誰か回してくれ」と言う。観客は、壊れちゃうんじゃないかとおそるおそるコックの体に触れてみたり、意外と強く回しても壊れないんだとわかってグッと回転させたり、それなりに楽しんでいた。

 縛られて吊されているコック、自らを縛って横になったジョージ。2人が身動きできなくなってかなりの時間がたった頃、ようやくジョージがごそごそ動き始め、そのうちコックも下ろされて、そこから「客いじり」のパフォーマンスが始まった。

photo: Hideto Maezawa
photo: Hideto Maezawa

 座っているところをそのままいきなりぐるぐるロープで縛られる客(おびえながらもやられるままだ)。全身をぐるぐるロープで巻かれ、目隠しまでされて、別の客に引っ張られて会場を連れ回される客(従順に言われるままだ)。コックのお尻を思いっきり鞭打つように言われる客(なかなか思いっきりは叩けないものだ)。縛られて動けなくなった女性のバックの中身を並べてみせる(そこまでしていいのだろうか、だれか止めないのか、と思いつつも、自分が止めには行かれない)。そうして最後には、ひとりの客が全身を縛られて、最初のコックのようにゆっくりと吊し上げられた。一方その頃コックは天井の近くまでロープで引っ張りあげられていて、そのロープを握っている数人の客が手を放したら床に激突するかもしれないというかなり危険な状態になっていた。途中でふたりがテクノっぽい曲で踊り、客をもてなすシーンもあったが、大部分は客いじりが占めた2時間半だった。

photo: Hideto Maezawa
photo: Hideto Maezawa

 ダニエル・コックのこれまでの作品でも、観客はただ客席に座って見ていればいいわけではなかった。『ゲイ・ロメオ』では、あらかじめ客に100ページ近い小冊子が渡されて、指示されたページを次々に読まなければならなかった。『Q&A』では、曲や踊り方や衣装などの好みを聞かれ、その結果に基づいて彼が踊った。さらに今回、コックたちは直接観客に触れて、行動を制限したり命令したりする。舞台の上にパフォーマーが留まっているという通常のあり方を壊そうという、それ自体は昔からあるメタ舞台的な試みとも言えるが、むしろもっと単純に、コックは観客と関わり合いたいのかもしれない。その欲望はよくわかる。いわゆる「第四の壁」は、客を舞台から排除して虚構性を確保すると共に、パフォーマーを客から隔ててしまう。客はそこにいるのだろうか、思いが届いているのだろうか――そんな不安を抱いたパフォーマーは壁を突破したくなるだろう。客を舞台に連れ込んでしまったら楽しいと思うかもしれない。コックたちはそれを本当にやってしまっただけだ。とはいえ、ワークショップならいざしらず、公演という場でそれがどのくらい許されるのかはきわどいところかもしれない。日本人は従順すぎで、外人は何でも楽しんでしまう。縛られることを面白がっている客もいたのは確かだが、むしろ怒り出す客や指示に従わない客がいた方が面白かったかもしれない。コックたちの意図が揺らいだときに、そこに何が現れるか、コックたちがどう対処するのか、そこまでを込めて作品が成立するのか、そのような彼らの意図が揺らぐ瞬間も見てみたかった。

 “たとえば解体社の作品でしばしば見られるように、たとえ虚構であろうともそこで行われる痛みを伴った行為が、現実にこの世界に存在してしまっている理不尽な権力を告発することもあるのだが、コックたちはそこまでの告発を行うわけではない。それでも、コックの今まで作品には、支配-被支配の関係を、客-パファーマーの関係からでっちあげて楽しんでしまおうという良い意味での軽さが感じられたのだが、それが今回はあまり感じられず、舞台が備える虚構性は消えることなく中途半端に存在していた。舞台だからこそ許されるという特権性を問題視する視点も見られなかった。これまでのコックの作品で見られた、舞台や作品を成立させるメタ的問題に対する聡明な分析が今回はなかったのももの足りない。とはいえ、言葉を封印して身体だけで客と関係を持とうという考えからだとしたら、コックが新しい方向を探り始めたのかもしれない。それは大いに期待できそうだ。

Daniel Kok / diskodanny & Luke George, "Bunny" , TPAM 2016 , photo: Hideto Maezawa
Daniel Kok / diskodanny & Luke George, “Bunny” , TPAM 2016 , photo: Hideto Maezawa


 

Choy Kafai, "SoftMachine: Expedition", TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa
Choy Kafai, “SoftMachine: Expedition”, TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa

4 チョイ・カファイ
 Choy Kafai

     『SoftMachine: Expedition』

           (2月6日~2月14日、BankART Studio NYK 3階)

 チョイ・カファイの名を最初に知ったのは、彼と一緒にシンガポールで作品を作ったと砂山典子氏から聞いた時だった。『貯水池(Reservoir)』(2008年)というその作品は、かつてシンガポールにあった昭南神社を掘り起こそうとするプロジェクトだった。昭南神社とは、1942年に日本軍がシンガポールを占領してすぐに建立した神社で、今ではシンガポール中央のマクリッチ貯水池を取り囲む熱帯雨林に埋もれてしまっている。祭神は天照大神。チョイや砂山たちは、熱帯雨林に分け入って昭南神社の痕跡を探したり、残された資料を調べたりして、昭南神社が何であったのかを、ダンスと音楽と映像で蘇らせようとした。残念なことに、日本とも関わりの深いこの作品はいまだに日本で上演されてない(いつかTPAMで上演できないものだろうか)。

 次に彼の名を見たのは、2014年に東京都現代美術館で行われた『新たな系譜学をもとめて』展に出品した作品『未來の身体へのパースペクティヴ』だった。ピナ・バウシュ、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、土方巽等の有名な作品の動きを電子信号化し、その信号を体中に貼り付けた電極から送ることで、意識的に動かなくても自動的にダンスが再現される、という実験だった。実際にそれが可能なのか、どこまで精密に再現されるのか、かなり疑わしいものなのだが、本気なのか冗談なのか、彼は大まじめでプレゼンをしていた。彼によると、振付の電子信号化によるダンスのアーカイヴ化が、そもそもの目的なのだという。そして今回の作品のプロジェクト「SoftMachine」は、ダンスのアーカイヴ化を目指す次の一手でもあるらしい。

 このプロジェクトは、2012年から始めたもので、アジアの今のダンスのアーカイヴを作らねばならないという使命感と興味から動き出したという。きっかけはアクラム・カーンだったらしい。2011年、ロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場で「Out of Asia」というシリーズが行われた際、カーンのようにアジア生まれではないダンサーが多かったことに、チョイは驚いたという。カーンが「アジアの身体」の精神性を語っているにも違和感を覚えたという。アジアには何十ヶ国もあるのに、「アジアの身体」と一言でくくれるのか? それならば、実際のアジアは今どうなっているのだろう? そうして調査を開始し、シンガポール、インド、中国、インドネシア、日本のダンサーや振付家、80人以上にインタビューを行った。タイトルの「ソフトマシーン」は、本や新聞の文章を切り刻んで並べる「カットアップ」という手法で作ったバロウズの小説。チョイは、ダンスも同じように、切り貼りされた部分から新たに再構成されうるのではないかと考えたという(注:このあたりの情報は、ゲーテインスティチュートが行っている、ドイツと東南アジアをダンスで結ぶサイト tanzconnexions でのインタビューを参照)。

 TPAMでは、チョイの行った調査の全貌を見られるインスタレーションが、BankARTの3階のスペースに展示された。インタビューをしたダンス作家たちの写真が張られた巨大なパネルが置かれ、4本のドキュメンタリーと多数のインタビューや上演の抜粋ビデオがエンドレスで流れていた。

Choy Kafai, "SoftMachine: Expedition", TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa
Choy Kafai, “SoftMachine: Expedition”, TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa

 中でもドキュメンタリーが面白かった。インドネシアのリアント、中国のシャオ・クゥ&チョウ・ツゥ・ハン、日本の塚原悠也(contact Gonzo)、インドのスルジット・ノングメイカパムの4組。かれらは、チョイがとりわけ重要だと思ったダンサーたちだという。

 インドネシアのリアントは日本人の奥さんと日本に住んでいる。ふたりで仲むつまじく家でくつろぐ姿。インドネシア料理を振る舞う姿。伝統舞踊を教える姿。新宿二丁目が落ちつくと語る姿。そんな、さまざまなリアントの姿が映される。ジャワ島中部のバニュマス生まれの彼は、その地方に伝わるレンゲルという女形舞踊の踊り手。しっかりと女装をしてしなやかに踊る彼の姿も見られる。彼はコンテンポラリーダンスのダンサーとしても活躍していて、北村明子がインドネシアのアーティストたちと一緒に行ったプロジェクト『To Belong』(2011~2014)にも参加していた。伝統舞踊で身につけた俊敏でコントロールの効いた身体で踊る彼のダンスは、ハチミツのように力強く甘い味がする。優しく気さくでなんの飾りもない彼の日常と、ダンスの強度とのギャップに驚かされた。

 中国のシャオ・クゥ&チョウ・ツゥ・ハンは上海で暮らしている。お互いの髪の毛をバリカンで剃る様子が映されていた。モダンな美しいダンスも作りながら、小さな公園で半裸になってゲリラ的に踊りもする。「作品は日常から生まれる、だから政治的状況に関わらざるを得ない、でも中国政府に反抗するつもりはない、今の私たちの生を見せたいだけだ」と言う。共産党によるチベット解放/侵攻を讃えるプロパガンダ曲「洗衣歌」を、人民服で楽しく踊るシーンも映されていたが、それはパロディなのか、静かな反抗なのだろうか。

 塚原悠也は、contact Gonzo が生まれたという大阪の公園で、「公園でコンタクトらしきことをやってみた、かき回さないとおもしろいものは生まれないと思った」と語る。土方巽が彼のルーツにあることも。チョイは、塚原が取っ組み合う相手の目線からカメラで捉えたり、河原でのダンスを至近距離から空撮したり、ぶつかり合う生の力を映像に捉えようとしていた。

 スルジット・ノングメイカパムは、故郷マニプールの伝統舞踊を、穏やかで美しいマニプールの自然のように、優雅で優美だと紹介する。彼自身も伝統舞踊の踊り手であり、その動きを分析して、コンテンポラリーなダンスも踊る。だが、フィルムの中の彼は、彼の目の前を通り過ぎていく様々なものを眺めていることが多かった。「動くだけがダンスだと思ったら大間違いだ、すべてがダンスなのだ」と彼は語り、町の喧騒の中や、静かな山の中で、人々の動きや風の動きを静かに見つめて思索していた。

 そもそもダンサーや振付家の日常を垣間見ることは必要なのだろうか、という疑問もあるだろう。作品がすべてであり作家の日常と作品とを結び付けて見ることは不純なものを導き入れることになる、という純粋主義もあるだろう。でも、そんな純粋主義は過度の禁欲主義ともいえる。私たちには、作品を好きになることと作者自身を好きになることを厳格に区別する義務はないのだから。とりわけダンスでは、作者と媒体が一致することが多く、その人を全体として受け止めたいという思いが強くなることは当然ながらよくある。

 プロジェクトタイトルを「ソフトマシーン」にした時、チョイは、網羅的に収集したアジアのコンテンポラリーダンスを無作為に切り貼りして、バロウズの『ソフトマシーン』のような作品が作れないかと考えていたのかもしれない。だが、それは無理だろう。活字となった小説ならその作者の身体的な実体を置き去りにして一人歩きできるだろうが、ダンスの媒体である身体はそう簡単には消去できない。チョイもそのことにいつか気づいたのかもしれない。だからこそ、電気信号によるダンスのアーカイブ化のようなダンサーからダンスを切り離す振る舞いはまったく消えて、むしろ、ダンサー自身がいまそこで生きている姿に静かに寄り添おうとしたのだろう。ダンスとダンサーが切り離せないことが、ダンスという形態のやっかいなところでもあり、良いとこでもある。そのうえダンサーでもあり作者でもあれば、自分の身体の存在を消去することも隠すことができない。チョイのドキュメンタリーを見ていると、作品と作者の実体的存在が過剰に結びつくダンスの特異性にあらためて気づかされた。チョイが最初からそれをねらっていたのか、それとも、アジアのダンサーを訪ね歩くうちに、自ずとそのようになっていったのか、それはチョイ自身にいつか聞いてみたい。

 4者それぞれが、それぞれの故郷の歴史や政治と何らかの形で強く繋がっているのも興味深い。リアントはジャワの伝統舞踊に、中国のシャオたちは共産党に、塚原は土方巽に、インドのスルジットは故郷のマニプールに。その繫がりを保ちながら新しいことをやろうとしているのも4者に共通している。とりわけ、リアントやスルジットのように、伝統的なダンスとコンテンポラリーなダンスが彼らの中でどのように共存しているのか、その様態をもっと知りたくなる。いずれネット上で、チョイ・カファイのプロジェクトの全貌が見られるのを楽しみに待ちたい。

Choy Kafai, "SoftMachine: Expedition", TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa
Choy Kafai, “SoftMachine: Expedition”, TPAM 2016, photo: Hideto Maezawa

    *     *

 タン・フクエンのディレクションによる4作品を見て、まず感じたのは、いずれも非常に理知的であることだ。コンセプトを明晰に言葉にしているだけでなく、作品自体も情緒や曖昧な身体性に依存したものではない。多文化・多言語環境で理解してもらうための戦略のひとつという面もあろうが、それだけではない。過剰に説明してしまう危険を冒してでも、コンセプトによって指針を明確にしようという意志がはっきりと感じられる。何を表そうとしているのか、何を伝えようとしているのか、そして、何が現れて何が伝わってしまうのか、常にその現実を見きわめようと敏感だ。自信と確信をもってクリエイションをしている姿が頼もしくあり、貪欲に突き進んでいこうとする闊達な推進力も感じられる。シンガポールという条件が彼らをそうあらしめているのだろうか。

 シンガポールの政治文化的特徴として、フクエンは次の3点を挙げている、「厳格な規律」、「驚異的な経済成長」、そして「多文化環境」(TPAMのサイト、及び、当日パンフレットによる)。日本から見たシンガポールのイメージもそのようなものだろう。シンガポールでは、経済成長とアーティストとが幸福な共存状態にあるのだろうか。

 都市経済学者のリチャード・フロリダは、人間の知性や知識、アートや文化というクリエイティビティが究極の経済資源となると言う。クリエイティブな行為に携わる「クリエイティブ・クラス」が集積する都市圏が、これからの経済を牽引するという彼の説は魅力的だ。もうすっかり忘れられた感があるが「クールジャパン」という日本政府の施策もその説を信じてのものだったのかもしれない。またフロリダは、クリエイティビティが集積しやすいのは、文化的寛容性や多様性、開放性が確保されている地域であり、それはボヘミアン(アーティストのことらしい)やゲイ(トランス等もおそらく入る)の集積と相関が見られるという。これも、なかなか魅力的な説だ。

 だが、シンガポールの急速な経済発展がクリエイティブ・クラスの集積を一因とするのかというと、そうだという人もいれば、そういう面もあるが問題点がありすぎるという人もいるようだ。実際、シンガポール政府は、教育・研究・芸術・文化等への投資を充実させて、クリエイティブな経済を波及させる施策を行ってきているのだが、人民行動党のほぼ一党独裁状態が半世紀続いているから強引な施策も可能だったとも言える。初代首相の李光耀(リー・クアンユー)の長男が現首相であり、一党独裁状態が続いているのだ。現在の日本政府もそれを望んでいるのだろうか。「国境なき記者団」による今年の「世界報道自由度ランキング」によれば、日本は72位、シンガポールは154位、どちらも低い順位で競っている。この数字を見れば、どちらの国も、民主的と言うよりは独裁的といわれてもしかたないだろう。民主的な自由を制限してでも経済成長を目指そうとしている点でも似ているようだ。

 また、シンガポールには、男性同士の同性愛行為を禁じる法律が今もあるが(女性同士は数年前に合法になったという)、これはイギリス統治時代の名残のようで、実際に適応されることはほとんどないらしい。今年、シンガポール政府は、外国企業に対して、ゲイ・ライツ集会への協賛をやめるようにとお達しを出しているので、政府としてはゲイに寛容な社会を望んではいないようだ。もちろん、政府が望まないとしても、シンガポールという都市がゲイに寛容であることもあるだろう。実際、シンガポールにゲイが集う場(ハッテン場)はいくつもあるという。今回のTPAMでもゲイないしはトランスが多いので、やはりゲイの多さがクリエイティビティと相関性があるともいえるかもしれない。とはいえ彼らはフクエンが選んだ先鋭パフォーマーであるから、シンガポールの標準よりは、そうとう先鋭的なアーティストなのかもしれない。

 いずれにしても、TPAMでの彼らを以てして、シンガポールのクリエイティブ・クラス事情を推し量ることは難しいだろうが、それでも、日本ではなかなか見られないような、切れ味の鋭いアーティスト、パフォーマーがシンガポールにいることは確かであり、それを生み出す都市シンガポールの政治・社会・地理的要因の分析が急がれる。もしかしたら、フクエンの選んだ4者は、シンガポールの体制から抜け出してもっと自由な空間で制作しているのかもれない。そもそもフクエン自身がシンガポールを抜け出して、バンコクを拠点として世界中を飛び歩いて活動しているのであり、彼が生み出すより自由なネットワークに彼らも組み込まれているのかもしれない。そんな自由な空気がとてもうらやましく感じられた。

 

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