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演劇実験室◎万有引力『─ 説教節の主題による見世物オペラ ─ 身毒丸』 撮影=伊藤青蛙
演劇実験室◎万有引力『─ 説教節の主題による見世物オペラ ─ 身毒丸』 撮影=伊藤青蛙

 初演の『身毒丸』を観たのは1978年。それが天井桟敷との出会いだった。天井桟敷の演出家兼音楽担当のJ・A・シーザーのコンサートでピアノ、シンセサイザーを担当していた友人Hに誘われたのだが、それまでは状況劇場、東京キッドブラザース、68/71黒色テントには足しげく通っていたものの、青森出身の寺山修司には同郷の近親憎悪めいたものがあって避けていた。そのわだかまりが、この舞台を見た瞬間、氷解した。映画「田園に死す」や「書を捨てよ、町へ出よう」を見た時の衝撃とはまた別の、体中の血が沸き立つような衝撃に襲われた。この日を境に天井桟敷に傾倒し、あまつさえ、演劇にかかわっていくというその後の人生を方向づけたのだから、『身毒丸』は私にとっては大きな転回点の作品だ。
 サブタイトルは「説経節の主題による見世物オペラ」。それを具現化したシーザーの呪術的ロックと役者の操身術、継母・撫子を演じる新高恵子の禍々しいまでの艶麗美、主人公しんとくの若松武史が暗闇に跳梁する肉体と狂気が炸裂する漆黒の見世物オペラ。永遠に醒めない夢魔に取りつかれたようなものだ。
 残念ながら、オリジナルの『身毒丸』はそれ以降一度も再演されることがないまま37年が過ぎた。

 初演で共同台本を担当した岸田理生が、寺山の死後、新たに書き直した改訂版を蜷川幸雄が演出したものが、巷間いわれる「寺山修司の身毒丸」だ。しかし、寺山修司が企図したものは、「もし、日本にミュージカルやオペラに匹敵する新しい音楽劇の可能性があるとするなら、この辺がひとつの突破口ではないか」(LP『身毒丸』ライナーノーツ)という見世物オペラであり、シーザーの音楽と寺山独特の発声法による和風オペラを抜きにし、しかもオリジナルの持つ魔術的猥雑性を抑えた蜷川演出版はただの平板な「家庭内愛憎劇」にしか見えなかった。アンチ寺山を公言し、「寺山と寺山の描く世界にはまったく興味がない」と言い切った蜷川がどのように料理上手に演出しようと、寺山へのリスペクトを感じることはできなかった。
 身毒丸の物語をかいつまんで言えば、主人公は少年しんとく。母が亡くなった後、父が見世物小屋で買った女、撫子を継母に迎えるが、しんとくは実の母親の面影を忘れることができない。それを知ってか撫子に邪魔者扱いされ、殺されそうになったしんとくは、業病を患い盲目になる。復讐のために撫子の連れ後、せんさくに業病をうつそうとするが、鬼人と化した撫子はしんとくを呪い、しんとくの名前を書いた卒塔婆に五寸釘を打ち付ける…。
 オリジナル版との違いは「理に適う」物語にしたということだろう。大きな劇場で名のある俳優を使って公演する「商業演劇」である以上、観客に「わかりやすく」見せるのは当然ともいえる。しんとくの愛憎の的となる継母・撫子は異界のものであるが、蜷川版ではその特殊性が薄まった。しんとくの父に「私はあなたの子が欲しい」と言われ、拒否されるなど普通のホームドラマではないか。オリジナルにはこのセリフはない。行水をするしんとくの裸身に男性を意識する継母というのも、この後の展開に寄与する場面であり、オリジナルとは異なる。また、蜷川版でしんとくのお尻を折檻するのは撫子だが、オリジナルでは学校の先生であり、しんとくは学校の先生を撫子ではないかと疑い、家に先回りする。蜷川版では家が崩壊し、世間という枷がなくなり、初めて撫子としんとくは抱き合い、二人だけの世界に旅立つ。継母と継子の「禁断の愛の成就」という結末はいかにも予定調和だ。
 オリジナルではしんとくと撫子がひとつになった瞬間、撫子の髪は真っ白になり老婆に変身する。二人の「愛」は成就しないばかりか、「すべての登場人物が母に化身し、唇赤く、絶叫する。裸のしんとくを包み込み、抱き寄せ、舌なめずりして、バラバラにして食ってしまう。そして、すべては胎内の迷宮に限りなく墜ちてゆき、声だけがこだましあって消えてゆく」のだ。継母と継子の禁断の愛というのは蜷川の好きそうなギリシャ悲劇を模したような母子の愛憎劇であり、合理的な解釈に落ち着く。しかし、寺山修司は決して物語を合理的に終わらせなかった。常に宙吊りのまま、観客に投げ出した。不合理性にこそ寺山の演劇の面白さがあった。だから、継母と継子の禁断の愛といういささかドメスチックな「物語」に矮小化した蜷川版身毒丸は私にはまったく受け入れられなかった。

演劇実験室◎万有引力『─ 説教節の主題による見世物オペラ ─ 身毒丸』 撮影=伊藤青蛙
演劇実験室◎万有引力『─ 説教節の主題による見世物オペラ ─ 身毒丸』 撮影=伊藤青蛙

 今回の万有引力版身毒丸(作=寺山修司、演出・音楽=J・A・シーザー、美術・衣装・メイク=小竹信節、共同演出・構成=高田恵篤)は極めてオリジナルに近いものだ。
 琵琶、二十五弦箏(当時は三十弦箏)、テノール、ソプラノ、ボーイソプラノ、ロックバンドなど演奏陣19人と俳優陣40人の陣容が織りなす圧倒的な和製オペラの迫力は比類がない。「まなざしのおちゆく彼方ひらひらと 蝶になりゆく 母のまぼろし」という琵琶の音と語りが始まった瞬間、大波のような感情が押し寄せてくる。呪術ロックの「慈悲心鳥」には総毛立つほど。シーザー音楽こそ『身毒丸』に欠かせない比類のない至宝だ。
 シーザーにとっては宿願だったオリジナル「身毒丸」の上演。ロックバンドと和楽器奏者、声楽隊の編成による大掛かりなものだけに、自前のバンドを練熟させるなど、実現には多くの時間を要した。舞台美術や演出はオリジナルとはもちろん違う。ステージを客席に張り出し、イントレをステージ後方に組んで立体的に見せた舞台セットは見世物小屋の猥雑かつ豪奢な雰囲気を出していた。
 天井桟敷の花形女優だった新高恵子のイメージが強い撫子役に挑戦した蜂谷眞未はやや年齢が若く見えるものの大健闘。卒塔婆に五寸釘を打ち込む鬼気迫る「藁人形の呪い」では髪振り乱し、目を吊り上げた蜂谷が一瞬新高恵子が憑依したかに見えたほど。
 しんとくを演じた高橋優太は身体能力が優れているので、躍動、跳梁するシーンが素晴らしい。継母に化けた「復讐鬼」では赤い襦袢を翻し、せんさくに襲い掛かるのだが、その顔に浮かぶ悪魔的な笑みは初演の若松武史の演技にも匹敵する。
 元天井桟敷の俳優・高田恵篤は柳田國男役。天井桟敷の俳優は操身術だけでなく、発声にも独特の様式美があった。恵篤はその話法を伝えている数少ない役者。その発語には懐かしく陶然とする。

演劇実験室◎万有引力『─ 説教節の主題による見世物オペラ ─ 身毒丸』 撮影=伊藤青蛙
演劇実験室◎万有引力『─ 説教節の主題による見世物オペラ ─ 身毒丸』 撮影=伊藤青蛙

 寺山修司がシーザーに贈った見世物オペラ『身毒丸』は、戯曲の上澄みをなぞって、単なる「家庭劇」として上演しても私にはまったく感興がわかない。不合理性にこそ寺山作品の面白さがあり、特に、この「身毒丸」はロックオペラとして書かれたものであり、その意図に則って上演された今回の万有引力版身毒丸にこそ、寺山修司の意図する不条理なまでの舞台の面白さがあると再確認した。
 オリジナルと蜷川版の比較については、舞台を企図するものが異なり、比較自体に意味をなさないと言われるかもしれないが、少なくとも寺山修司=天井桟敷の舞台にこそ寺山演劇の神髄があったのは確かであり、今回の37年ぶりの「身毒丸」は天井桟敷の舞台を生で見ている私にとっては大いに満足のいくものだった。これこそが寺山修司の演劇だと声を大にして言いたい。
 4ステージという少ないステージだっただけに見る機会を得なかった人も多かったに違いない。次の再演では十分なステージ数を取って、多くの観客に見てほしいものだ。