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ローザス、アトラファイブ『和声と創意の試み』 Photo: 大洞博靖

 ローザスのアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルがヴィヴァルディの『四季』で作品を作った。ローザスのダンス学校P.A.R.T.S.出身の俊英ラドワン・ムリジガとの共同の振付。ムリジガとは2度目の共作だという。クレジットにある「アトラファイブ」とはムリジガが主宰する団体。タイトルの『和声と創意の試み』はヴィヴァルディが1724年から25年にかけてアムステルダムで出版したヴァイオリン協奏曲集で、『四季』は12曲中の最初の4楽曲。彩の国さいたま芸術劇場で2026年6月19、20、21日に上演され、私は20日に観ることができた。初演は2024年。

 いつものようにアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルは、曲を緻密に分析して振付を編み出したのだろうが、多くの作品に見られる張り詰めたストイックさはかなり薄れ、親しみやすく楽しく見ていられる作品になっていた。これまでのケースマイケルの作品にはあまり見られないような振付が幾度も見られたことも驚きだった。ムリジガがどのように関わっているのかははっきりしないが、彼の力が大きいことは確かだろう。最後を締め括る詩がこの作品の色合いを大きく決めるのだが、その詩をそこに置いたのもムリジガだという。

 何もない舞台の奥の壁には6×7=42本の蛍光灯が並び、いくつかが不規則に点滅し始める。数分も続く何かを訴えるようなその点滅が何なのかは、最後になってようやくわかった。ダンサーのボシュチャン・アントニッチがひとり薄暗がりのなかでゆっくりと動き始める。前回来日公演の『我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲』にも出演していた。スロヴェニア出身のひげ面の哲学者然とした人物。同じ動きが繰り返されていくうちに、ひらひらと舞い落ちる落葉、しなやかな鳥の羽ばたき、畑を耕す仕草と思わせる動きがときどき見えてくる。こういう具体的な仕草はローザスの作品には珍しいので、ほんとうにそれを表しているのか、最初は見ていてこころもとなかった。アントニッチに続いて3人のダンサーも動き出す。最近のローザスの作品は男性が多い。この作品に登場する4人も男性。

 しばらくして聞こえてきたのは「秋」の第2楽章。「春」や「夏」に比べると影の薄い地味なアダージョ。クラヴサンとテオルボの通奏低音にまぎれてヴァイオリンが途切れ途切れに聞こえてくる。アマンディーヌ・ベイエが率いるリ・インコーニティは、最近の古楽器アンサンブルの中でもとりわけみずみずしい響きで抜きん出ている。この『四季』の録音も、何度も聞いているはずの曲がとても新鮮に聞こえる。このアダージョも、こんなにも豊かな音が潜んでいたのかと驚くほどなのだが、ケースマイケルとベイエは、この豊かな響きを最初に聞いてもらいたいと思ったのかもしれない。ベイエは、ビーバーの『ロザリオ・ソナタ』をもとにケースマイケルが創作した『Mystery Sonatas / for Rosa』(2022)でも共演している。

 ケースマイケルの作品のほとんどで見られる床の幾何学模様も、かすかに見える。たくさんの重なり合った円や正五角形。4人のダンサーは、その上で静かに円を描いている。それらの図形はダンスの軌跡と重なることもあれば、一種の護符としてそこにあるのかもしれない。たゆたうアダージョでふわふわと漂う動きが続き、しばらくして「冬」の第3楽章が始まる。『四季』全曲の最後の哀しい曲。カチッとそろうわけでもなくバラバラになるのでもないゆるやかな4人の動きは少しずつひとつになり、力強い足踏みになる。ブラジル出身のホセ・パウロ・ドス・サントスとセルビア出身のラヴ・クルンチェヴィッチの2人が、複雑に交錯するタップを踏む。思わず拍手が湧き上がるそのタップのさなかに、あざやかに「春」が始まった。長く待ちわびた「春」だ。

 4人のダンサーは、音楽に合わせて――そう、本当に「音楽に合わせて」というのはこういうことを言うのかと思えるほど、音楽に合わせて動き始める。踊るわけではなく、大きな8の字を描いてゆっくりと歩く。時々、音楽の区切りで逆方向に回り出すが、それ以外に動きの変化はほとんどない。小鳥がさえずっても、小川が流れても、雷が鳴っても、変わらない。音楽に合わせて、そっと手を前に差し出しながら、「私たちのダンスよりも音楽をどうぞ」とでも言いたげに、ゆっくりと曲線を描いて歩き続ける。羊飼いが眠る第2楽章でも歩き続ける。フランス出身のナシーム・バダグがひとりはずれてブレイキンを始めることもあった。ゆったりとしたローブの前に花を抱えてまき散らすような仕草をすることもあった。これはボッティチェッリの『プリマヴェーラ(春)』の中央の、ウェヌスの右にいる花の女神フローラなのだろう。

 けだるい夏は物憂く始まる。4人の動きも音楽そのままに憂いを帯びる。「ヤッ」とかけ声と共に激しい第3楽章が始まると、やはり音楽そのままの激しさで、しかもひとつのフレーズにひとつの大きな動きという、これまでのローザスではめったに見られなかったような素直なダンスだ。繰り返しの多い音楽には回転運動が似合う。バダグはブレイキンでくるくる回っている。

 収穫の秋は明るく楽しい。酒を飲んで、いびきをかいたり、パンツをずりおろしたり。だが、狩りの第3楽章は恐ろしかった。シャキッと立ち上がったダンサーたちは観客に向けて猟銃を構える仕草をし、ヴィヴァルディの音楽と共に発砲する。

 冬は寒い。ダンサーたちは腕を抱えて凍えている。『四季』の中で最も美しいのではないかと思う第2楽章では、火のまわりに集まって暖をとる。スケートまでし始めると、もうそれは冬としか思えない。

ローザス、アトラファイブ『和声と創意の試み』 Photo: Anne Van Aerschot

 『四季』は、愁いに満ちた「冬」の第3楽章で終わる。背後の多数の蛍光灯が大きな白い布で覆われて薄暗くなっていくなかで、ボシュチャンの最初のソロがもう一度静かに始まった。鳥の羽ばたき、畑の耕し、ひらひら舞う落ち葉など、今度ははっきりとそれとわかる。人々を取り囲む四季の移り変わりの仕草なのだが、ボシュチャンはひとつひとつていねいに、無表情で、淡々となぞっていく。静かなソロの背後では、やはり始まりと同じに蛍光灯が点滅するが、今回は言葉を伴っていた。点滅は言葉を伴っていたのだった。ラドワン・ムリジガが、知り合いのアスマー・ジャマに依頼して書いてもらった詩だという。アスマー・ジャマは、ソマリア系のデンマーク人で、マルティメディア・アーティスト。劇場で聞こえた詩は英語で、何を言っているのかなかなか咀嚼できなかった。ミミズとか死者とかネズミとか、けっしてヴィヴァルディのソネットには出てこない言葉が異様だった。公演後にパンフレットに載っている翻訳を読んでみると、ヴィヴァルディのソネットとはまったく異なる恐ろしい世界だった。もう秋には収穫は期待できない、冬でも太陽は大地を焦がす。いつまでも来ない春を待ち続けるしかない……地球温暖化の行き着く先なのかもしれないが、ジャマの詩を読んで強く心に残るのは、なれの果ての地上でボロボロになりながらも生きている小さな生き物たちの姿だ。

「私は大地に座り 夜を待つ ミミズたちも共に待つ 宝石のように輝きながら」
「祈るように空へ伸びる タコの触手の山」
「新たな日を願う か弱いガゼルのように 最後の一頭として」
「死んだ魚のように 私の身体はだらりと重く 鱗に覆われている」

 人間の不作為により地球は絶えるかもしれないが、それでも小さな生き物たちは懸命に生きていくしかないのだ。 

 「i am trying to salvage the soil now
  i am trying to stop it from becoming a cemetery
  いま大地を再生しようとしているから
     ここを墓場にしないために」

 「i am, the salvage, i was waiting for
  spring, i was waiting for, rain, i was waiting for
  私は 待ち続けていた 救い出されし者
  待ち続けていた春 待ち続けていた雨」
                (翻訳は当日パンフレットから)

このthe salvage は二重の意味を持っているだろう。救う者であり、救われる者でもある。イエス・キリストがそうであったように。

 アスマー・ジャマの詩はヴィヴァルディのソネットのあまりにも牧歌的な自然の享楽をだいなしにするかもしれないが、そもそも『四季』が音楽で描き出しているような四季は、どこかにあるかもしれないがどこにもない楽園の四季でしかないだろう。ヴィヴァルディが育ったヴェネツィアは、アドリア海の奥にあって思いのほか自然の驚異にさらされているようだが、それでも春は確実にやって来る。ジャマが語る世界は、いかに現実離れしていようと、十分ありうるこの地球の現実の姿だ。130年ほど前にH.G.ウェルズが『タイムマシン』で描いた地球と人間の終焉は、はるか先の未来の話としてそれほど真摯には受け取られなかったのかもしれないが、ジャマが描いている終末は、それほど遠くない現実として迫っている。

 瞬く蛍光灯とシンクロするジャマの詩のうつろな響きは、ほど遠からぬ先の朽ち果てた地球でわずかに残存した記憶装置のつぶやきのようにも思えてくる。今見てきたローザスとアトラファイブによる『和声と創意の試み』は、かつてあったという四季を、ヴィヴァルディのソネットと音楽、そして4人のダンサーによって、かろうじて夢想しようとしている記憶装置の夢なのかもしれない。夢想でしかない自然に、ヴィヴァルディの『四季』はよく似合う。

ローザス、アトラファイブ『和声と創意の試み』 Photo: 大洞博靖

 さて、ケースマイケルと言えば、緻密な楽曲分析から振付を作っていくとよく言われる。たとえば、コルトレーンの『A Love Supreme〜至上の愛』では、サックス、ピアノ、ベース、ドラムの音の動きが、4人のダンサーに振り分けられていたのは見ていてもわかる。基本となる動きのモチーフがひとつあり、それをそれぞれの音の動きで増幅したり縮約したりしているようにも見えた。ここでおもしろいのは、緻密に組み立てられた振付が、コルトレーンの音楽とは似ても似つかないことだ(とはいえ、どのようなダンスであればコルトレーンの音楽とぴったり符合するのか、と問われてもわからないが)。ひとつひとつの動きは基本モチーフの変奏であり、音楽の表情をなぞるものではないので、音の動きとパラレルに構成される振付は音から湧き上がる感情とは異なるものになるからだろう。ここが、ケースマイケルの特異なところであり、おもしろいところだ。音楽と同時にそこにあるダンスは、時には何か得体の知れない存在となっている。それは音楽に従属するダンスではなく、音楽から生まれた何か別のものなのだ。音楽から受け取る表情や感情ではなく、音の動きそのものを直接ダンスにしようとしている。ただし、スティーヴ・ライヒなどのミニマルミュージックを扱う場合は、音楽の幾何学的循環性と振付のそれとがわりとしっくりと一致するという特異性があるのかもしれないが。

 この『四季』では、それが少し変わっていた。音の動きをストイックに振りに変換するのではなく、音楽の表情や感情をそのまま動きに乗せる場面が多かったように見えた。音楽の表情とダンスの表情が自然にシンクロしていたので、音楽とダンスを同時に楽しむことが自然にできたのだと思う。長調と短調とで動きが変わったり、激しい短調の曲は激しく、物憂い短調の曲は物憂く、その表情をくっきりと分けているのも、ローザスの作品としては新鮮だった。ムリジガとの共同振付が、これほど作品の姿を変えたのだろうか。

 そのムリジガはモロッコのマラケシュ生まれ。最近では、故国の周辺に昔から住むベルベル人の文化に焦点を当てた作品を作っているという。最後の詩の作者アスマー・ジャマは、ソマリア系ディアスポラ。あの詩に描かれた干からびた地は、内戦だけでなく気候変動による被害を直接に受けてしまっている祖国ソマリアのリアルな姿でもあろう。地球の破滅よりも先にソマリアの消滅が近いかもしれないのだ。リアルな現実がこれほどに作品を侵蝕することは、ケースマイケル作品としてはめずらしいかもしれない。

 もちろん、地球温暖化をこのひとつのダンス作品で止めることは難しいだろう。二酸化炭素の排出量を減らしても100年後の平均気温上昇を2℃以内に押さえるのも厳しいとも言われている。ヴィヴァルディの『四季』が何を描写しているのかわからなくなる可能性もある。ローザスのダンサーたちが楽しげに繰り返すダンスが、四季の営みと関わることも理解されなくなる日がくるかもしれない。希望はけっして多くはないが、それでも、いまなお大きな影響力をもつローザスが、この警句的な面ももつ作品を上演した意味は大きい。■

ローザス、アトラファイブ『和声と創意の試み』 Photo: Anne Van Aerschot
ローザス、アトラファイブ『和声と創意の試み』 Photo: 大洞博靖