昭和100年:ふるさとびとのおばけはどこにもいない――流山児★事務所『青森県のせむし男』/新野守広

作=寺山修司(「演劇実験室⦿天井棧敷」旗揚げ作品)
台本構成=高信すみれ、流山児祥、V・銀太(グローシャ)
演出=流山児祥
2026年7月11日(土)~7月20日(月・祝)/ザムザ阿佐谷
撮影=横田敦史
流山児★事務所が『青森県のせむし男』を上演した。「見世物小屋の復権」を掲げた演劇実験室⦿天井桟敷が1967年3月の旗揚げ公演で取り上げた作品である。初演から半世紀以上が経ち、その間に少子高齢化が進み、作品が扱う家制度は揺らいだ。ニュースなどで墓じまいが話題になることも多い。
現実社会で家制度の揺らぎが顕著になれば、戯曲は意味を失い、過去の遺物となるのだろうか。流山児演出は、こうした時代の変化を踏まえて、寺山作品とどのように向き合うのだろう。
Ⅰ.引用/借用がリズムを生む
舞台には、見世物小屋風のセットが組まれている。三方を囲む背景幕には、日章旗を思わせる太陽が山間に光を伸ばし、その上に毒々しく花弁を散らす巨大な花々が描かれている。正面には「大正家」と記された額縁が掲げられ、その右上には三味線弾きの位置が設けられている。中央には狭い穴が開き、上方には寺山修司の戒名などが記された卒塔婆が多数吊り下げられていた(舞台美術=V・銀太)。
開演すると、抒情的な母の歌の合唱が始まり、鉄道線路を探す男が現れる。いかにも寺山的な母恋しの幕開けだが、これは『身毒丸』の冒頭場面だ。意外な引用だが、『青森県のせむし男』の導入としても不思議と馴染む。
続いて女浪曲師(原きよ)が賽の河原の物語を語り出し、セーラー服姿の少女まつ(山川美優)が大正松吉殺害の顛末を語り始める。『青森県のせむし男』が立ち上がる。
しかしその後、俳優陣の歌とダンス、大正家使用人礼儀作法読本(『奴婢訓』の「少年礼儀作法読本」のパロディ的引用だろう)など、原作以外の寺山作品が次々と挿入される。原作の「戸籍係の失踪」や「捨て子の子守唄」に戻った後も、他作品の場面が重ねられ、物語は大きく膨らんでいく。
こうした構成は、さまざまな寺山作品に共通するモチーフを抽出し、それらを強調する意図によるものだろう。本体となる『青森県のせむし男』も場面の順番が入れ替えられ、セリフが加筆されている。寺山ワールドの多彩なイメージ群のなかに『青森県のせむし男』を置き直し、内包する諸要素を再接続することで、今日の観客とともに寺山の世界のリアリティを再確認しようとしているように見えた。
そのため舞台は非常に面白い。寺山の言葉の引用も豊富で、寺山ファンには発見が多いにちがいない。流山児★事務所は、歌と踊りの音楽劇を得意としている。自在な引用/借用は「自由」の理念に支えられ、場面ごとに固有のリズムを生み出す。音楽劇を得意とする集団の特徴が作品とかみ合い、俳優の演技が輝く瞬間が持続した。
なかでも大正マツを演じた伊藤弘子と、大正松吉(母恋のせむし男)を演じた三上陽永の演技は印象深い。洋装と和装を鮮やかに着こなす伊藤は、女主人マツの誇張された振る舞いの背後に、大正首吉に手籠めにされ、生まれた赤児を捨てた女中時代の暗い過去を覗かせる。方言を駆使して熱演する三上には、近代化の過程で搾取され続けた東北を、作り物の背中のコブに背負わせようとする気迫があった。
この二人に少女まつ(山川美優)と浪曲師(原きよ)が絡み、浄瑠璃を思わせる過剰な情感をじっくり見せたかと思えば、俳優たちが舞台になだれ込み、歌と踊りで場の感情を一気に転換する。人形振りも板についた美少女(岡本瑠奈)と美少年(高信すみれ)、存在感ある家令(甲津拓平)をはじめ、女中・下男・小間使いを演ずる俳優たちはキッチュ感を前面に出し、祝祭的な空間を作り出した。流山児演出は、権威から解き放たれた「まがい物」ゆえの表現力を強調する。母と子の愛憎溢れる場面がここぞとばかりに演じられても鬱陶しくならないのは、そのためだろう。静と動、個と集団を組み合わせる構成も飽きさせない。

Ⅱ.まがいもののキッチュな力
1967年の初演時、作家の森茉莉は「歌舞伎が失った陰惨と血の匂いとを『青森県のせむし男』は持っている」と書いた。当時、彼女には中村歌右衛門と片岡芦燕という「歌舞伎の陰惨を背中に背負っている女形」がいた。しかし2026年の今、実在の歌舞伎俳優にかつての陰惨を求めることはできない。「陰惨と血の匂い」は、キッチュを積み重ねた果てに、かろうじて痕跡として感受できるものであろう。
たとえば、寺山の原作では大学で遺伝の研究をしたことになっている大正首吉(浅倉洋介)は、流山児演出では法医学と細菌研究に携わる軍医として関東軍防疫給水部(いわゆる731部隊)に転属した後、コレラで死んだという設定になっている。原作では言及のみで、人物としては登場しない首吉が、父・大正甚蔵(流山児祥)、母・大正セツ(栗原茂)とともに舞台に現れ、『邪宗門』の一場面を借用して家族合わせの札ゲームを行ったり、山吹(真田雪)に恋慕する首吉をセツが諫める場面が演じられたり・・・。他作品からの引用/借用が続き、まがい物感は膨らんでいく。
その一方、戦時中を思わせる言葉が随所に挿入され、全体は戦時下の出来事の回想という枠に収まる。たとえば『邪宗門』『新・邪宗門』(本公演のプログラムに所収)に登場する人形遣いも現れるが、彼がモノローグで言及する関東大震災は、昭和20年3月の東京大空襲に置き換えられている。後半、少女まつが松吉に親密に語りかける場面では、おまえは戦争に行かなくていい、というセリフが聞こえた。こうした細部の補足と改変は観客の記憶に残る。キッチュな演技の背後で戦時下の日本との関連が強調されるのを感じた。



