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3. 「音楽演劇」がひらく解釈の可能性

 同作では、バンドメンバーによる音楽のパフォーマンスが劇世界というフィクションの次元に並走してアクチュアルな生の迸りを与える役割を果たしている。特に、マリンバ奏者の中野の歓びに溢れていながらしっかりと地に足の付いた佇まいが、フィクションと現実を往還する同作の世界に自然と観客を導いてくれていたように思う。全楽曲に言及する紙幅がない中で特筆したいのは、一見同作の物語と何ら関係のない「プラスティック・ラブ」(竹内まりや)のカバーだ。「ぼくたちが地球の、韓国という国のお祭に呼んでもらって演奏した曲です」という神保の前口上でいったん観客を現実の次元に引き戻した後、鈴木の巧みにエモーションを織り込んだ歌唱に乗せて「きみ」/ウェイター役の堀が踊る。アンドロイドらしい動きと人間の女性らしい所作がない交ぜになった振付と堀の表情はどこか空虚で哀しげで、少しいじらしくもある。このときの堀が演じているのがはたして「きみ」なのかウェイターなのかを知る手掛かりはないが、その両者がこのダンスでのみ渾然一体となっているのではないかという想像を掻き立てられた。

撮影=保坂萌

 「プラスティック・ラブ」の直前のシーンで、ウェイターはようやく「きみ」から届いた暗号メッセージを自らの身体を通して解読し、ビデオのように再現する。「きみ」は地球で人間から迫害される悪夢を見ることから強くなりたいという思いを抱いて「銀河最強のアンドロイド軍」を作ったと語り、悪夢の原因であろう記憶のネジを捨ててほしいと明るく言い放つ。かつて地球でアンドロイドと人間が平和に共存する社会を夢見た「きみ」は、軍隊を率いるリーダーとなっていたのだ。

 「きみ」は「ぼく」やY3の側——観客の視点もこちら側に誘導されているだろう——から見れば、宇宙の彼方まで追いかけるほどに再会を願った彼女とはまったく異なるスタンスの人物になってしまっていた。しかし、同作におけるウェイターを含むアンドロイドの設定を思えば、彼女らは基本的に体内に入れられる記憶媒体や所有者の望む役割に応じて何者にでもなれる空虚さを抱えた存在である。軍隊を作るという帰結でさえなければ、彼女らが個人として強力な意志をもつことは称揚できたのに、という筆者の感覚もまた「ぼく」同様に勝手な理想の押し付けにすぎないのだろう。あくまで個人的な解釈になるが、「プラスティック・ラブ」に乗せて踊る堀の姿は、相手の期待に応じて何者でも演じられるアンドロイド女性という存在の寄る辺なさを、ひとつの身体において「きみ」/ウェイターを往還させることで共鳴させているかのようにも見えた。

 

4. 大気圏を突き破って

 同作の終盤は、「ぼく」が犯したとある過ちの告白を経て、「物語の外」すなわち2026年の地球の「スタジオ空洞」に行き着くというメタフィクション的展開を迎える。ここに至って地球と宇宙の距離はそのまま過去と現在の距離、そして現実とフィクションの距離に置き換えられ、これまでも「音楽演劇」の効果や人類の演劇文化への言及によって表裏一体となっていたフィクションの次元とアクチュアルな次元がいよいよ混ざり合う。フィクションを超え出たいという願いは、2022年の音楽演劇『ま、いっか煙になって今夜』の楽曲「モンキースキャン」の「飛び出そうぜ 映画の外側へ 抜け出そうぜ メガホンを捨てて」1)神保治暉(作・演出)『AREA51 1ST ONEMAN LIVE ま、いっか煙になって今夜』(戯曲)、エリア51、2022年。という歌詞にもその萌芽が見られる。

撮影=保坂萌

 この最終場面で物語の外に出て俳優「徐永行」となった「ぼく」が怒濤のように「きみ」に向かって投げかける言葉の性質は、ひと言でいえば直截であり、エリア51楽曲の豊穣で遊び心ある歌詞とは対照的だ。エリア51の歌詞の性質については、ドラマトゥルクの長谷川祐輔が「単純なことを遠回りせず伝えたいだけなのに、言葉のうねりはみずから制御することができないまま、吐口が見つからない」2)長谷川祐輔「イノセンスと詩語の宇宙」、『衛生 2605』(ZINE)、長谷川祐輔、鈴木美結編、エリア51製作、2026年。といみじくも言い当てている。これに対し、同作の終盤で徐であることを引き受けた「ぼく」がスタジオ空洞という現実の中のフィクション領域から広大な宇宙の闇に向かって叫び続ける「きみがいなきゃだめだった」、「きみに戦争なんかに加担してほしくないんだ」といった言葉は、あまりに単純といえる。それは、相手がその音の存在にすら気付かないかもしれない言葉、相手がもはや必要としていない言葉、相手がそれを発されることを望んですらいないかもしれない言葉——そんな類いのものである。

 こうした単純で直截な言葉の必然性を、同作におけるもうひとつの異種族間友情である「ぼく」とY3の関係性から考えたい。同作は「ぼく」と「きみ」の友情を物語の契機および終着点としているが、実際のところ上演時間の多くを占めるのは「ぼく」と旅を共にするY3との友情を感じさせるシーンだという印象を受ける。「ぼく」とY3の友情は、「ぼく」と「きみ」のそれとはまた違ったかたちでエンディングを迎える。「ぼく」が「きみ」と関係を結び直すことを、俳優「原雄次郎」演ずるY3は「ぼく」の姿が見えなくなってもなお「信じる」ことで応援し続けるのだ。それは「頑張れ!」というやはり単純な叫びの反復に集約される。「頑張れ」という言葉は、相手を直接手助けすることができない状況や相手にその言葉が届いているかどうかさえわからない状況にあっても有効な唯一の祈りであるだろう。

 人間(同作では「旧人類」)、アンドロイド、ロボットという立場の違いが示唆するのは、権力勾配における立場の強弱の違いであり、物事を見る視角の違いであり、他者同士が同じ光を見ることの絶対的不可能性——光を見るとき、私たちは単一の物体を見るのではなく反射を各々の異なる身体でもって受け取っているにすぎない——である。「ぼく」が「きみ」に叫ぶのは、結局のところ道徳的にケアすべき誰かに向けた言葉などではなく、自分の眼前から遠ざかってゆくたった一人の背中に振り向いてほしいというどうしようもなく人間じみた願望に思える。だが、権力勾配のある社会における根本的なわかり合えなさの中で、もはやいかなるスタンスかもわからない「きみ」を決して諦めない姿勢は、微かな希望となり得るように思えた。ゆえに、同作がルーツの異なる人びとの共生や投票行動の主体性といった政治的テーマを孕むことと、一貫して「きみ」という身近な一人を追いかけることは決して矛盾しない。

 最後に、「ぼく」は「きみ」に届くかもわからないままに投げかけた言葉=光が「間違って届くかもしれない」可能性を引き受けている。同様にこの上演自体も、たとえ違う光として受け取られたとしても、音楽のグルーヴのように誰かの身体に届くこと自体が未来への糸口になるのだろう。そうであるならば、観客の目線からは、「ぼく」がそれらの言葉を投げかけるまで傍にい続けたY3の存在こそが「光かもしれない」とも思う。「ぼく」の叫びが劇作家自身のそれであるとするならば、Y3はその傍でグルーヴを保ち続けたバンドメンバーの存在と重なり合う。幸か不幸か私たちは、たった一人を追い求めることさえ一人ではできないのかもしれない。宇宙の旅に相棒が付きものであるように。

 同作のメタフィクション的エンディングは、大気圏=フィクションと現実の境界線を突き破り、フィクションの側から現実という特異点を見つめ返す契機を与えていた。目を開けば戦争、暴力、移民排斥のニュースが飛び込み、選挙の結果は往々にして苦い昨今の世界で、未来の時空に漂う無数の「光かもしれない」(ということは光でないかもしれない)ものたちに向かって、たとえ地下深く小さな場所からであっても手を伸ばす勇気を与えてくれる演劇であった。


【7月31日 (金)まで配信チケット販売中】
エリア51 音楽演劇『光かもしれない』

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1. 神保治暉(作・演出)『AREA51 1ST ONEMAN LIVE ま、いっか煙になって今夜』(戯曲)、エリア51、2022年。
2. 長谷川祐輔「イノセンスと詩語の宇宙」、『衛生 2605』(ZINE)、長谷川祐輔、鈴木美結編、エリア51製作、2026年。