Print Friendly, PDF & Email

左よりモロの君の市川笑三郎とアシタカの市川團子 ©松竹
左よりモロの君の市川笑三郎と乙事主の市川中車 ©松竹
アシタカの市川團子 ©松竹
市川中車の乙事主の率いられる猪たち ©松竹

 スタジオ・ジブリ制作のアニメ『もののけ姫』(1997年公開)がスーパー歌舞伎になった。もとは『E.T.』を抜いて当時の歴代興行収入第一位を記録した大ヒット映画だ。原作・脚本・監督の宮崎駿は自然破壊の軋みやまつろわぬ民の姿を鮮やかに描きだした。多くの人の記憶に残る映画が原作だけに舞台化のハードルは高いが、チーム一丸となって現代歌舞伎ならではの魅力を横溢させる力作となった。スーパー歌舞伎が創始者の二代目市川猿翁(三代目市川猿之助)の孫、市川團子という颯爽たる貴公子を得て、息を吹き返した感がある。

 

大道具の転換に歌舞伎の底力

 長い間スーパー歌舞伎の担い手の一人だった横内謙介の上演台本・演出(脚本=丹羽圭子・戸部和久)がまず優れていた。アニメはスピード感あふれる展開をカット割りなどで処理していくが、舞台の転換はそうはいかない。現代演劇なら抽象的な装置と暗転の多用で展開していけるところも、見た目の華麗さやインパクトを重視する歌舞伎では難しくなる。が、大道具の献身的なサポートを受け、布や幕を多用しつつ回り舞台なども使い、あくまでアナログの手法で眼をみはる効果を発揮していたあたり、歌舞伎の底力を巧みにひきだしていた。獅子頭のように獣の頭をつかい、アクロバティックな動きもとりいれ、横内演出は歌舞伎の文法を総合化しながら、一対一の場面、群衆のうごめくシーンなどで緩急をつけていた。

 もとより、物の怪や獣といった人外の存在にまで魂を見いだすアニミズムの伝統は民族的演劇である歌舞伎と親和性が強く、違和感なくアニメの世界観に橋を渡すことができる。考えてみればあたりまえのことだが、意外な発見でもあった。エミシの祀りに登場する東北の鹿踊りは縄文文化に入れ込んだ岡本太郎が偏愛した民俗芸能で、自然に神を見いだす日本人の意識の古層へと瞬時にドラマを送りだす。子役がかぶりもので演じる木の精コダマは、コロボックル(アイヌ語で蕗の下の人)もどきでかわいらしい。

 30分の休憩を入れて3時間40分、物語は映画のそれに沿って進む。狩猟採集の時代から農耕社会へと転換し、権力の集中がすすんで大和政権が生まれたあとの話。王権が衰え、武士の力が増していた時代、大和との戦争に敗れたエミシの民が古来の生活を守って隠れ住む村が残存していた設定だ。祀りのさなかにタタリ神が現れ、少年アシタカ(團子)は眼を射抜いて討ち果たす。呪いを受け、腕に痣を刻まれたアシタカは老巫女ヒイさま(市川笑也)の言葉に従い、呪いを解く術を見つけようと西国へ旅立つ。ジコ坊(市川猿也)に教えられたシシ神の森にたどりついたアシタカは鉄をつくるタタラ場と犬神たちとの戦闘に遭遇する。

 モロの君という白い犬神(市川笑三郎)とそのもとで育った少女もののけ姫ことサン(中村壱太郎)は、タタラ場を率いるエボシ御前(中村時蔵)と果てしない闘いをつづけていた。エボシ御前は差別された者たちに糧を与える教祖的存在でもあり、タタラ場では難病に苦しむ人や行き場のない女たちが働いていた。エボシ御前に一騎打ちをしかけたサンとの闘いに割って入ったアシタカは瀕死の重傷を負うが、巨樹のもとでシシ神の霊力に救われる。アシタカはサンに「生きろ」「そなたは美しい」といい、人間と森とが争わずにすむ道はないか思い悩む。アシタカに呪いをかけたタタリ神は猪神だった。乙事主(市川中車)に率いられた猪たちとエボシの戦闘が起こり、エボシはさらにシシ神(團子、二役)の首をとる。シシ神は昼には獣の姿だが、夜には神々しい聖性を帯びる。共生を願うアシタカがシシ神のその首を返すと、自然は再び緑をとりもどし、輝きはじめる。舞台では、復活したシシ神が華麗な宙乗りで天空に飛び立つ。

 

表徴の森を美術や衣裳が雄弁に描きだす

 映画もそうだったが、筋を負うのが難しい物語ではある。森羅万象に神をみるアニミズムの視点で書かれ、自然破壊はギリシャ悲劇のように人間と神との闘争となる。網野史学をもとに非定住民や抑圧された民を歴史を動かす役まわりとする面も見逃せないが、それゆえにドラマは筋というより表徴の森と化すのだ。

 その点、舞台では美術や衣裳が雄弁だった。二代目猿翁の手がけたスーパー歌舞伎はオペラ、バレエ、現代演劇の気鋭の才能を結集し、装置、衣裳、照明に先端的な試みを取り入れた。猿翁の革新性、プロデュース能力の凄さについて、私は照明家の吉井澄雄さんから何度となく聞いている。横内謙介にくわえ、今回参加した美術の金井勇一郎も衣裳の桜井久美もそのこだわりの現場をよく知っている。『もののけ姫』には、その遺産が生きていた。人間の欲望によって滅ぼされる自然のいたみやアニミズムへの共感が舞台表現の塊となって濃厚に感じとれたのだ。

 なかでは金井勇一郎のタタラ場の装置が光った。これはタタラ製鉄の本場、島根県は米子市の博物館で取材し、足踏みのきつい労働で成り立つ仕組みを把握してつくられたという。伝統的な書き割りからかけはなれた、立体的でリアルな装置だ。転換を助ける原生林の幕は屋久島でのスケッチによるといい、巨樹の装置は縄文杉を思わせた。夜の岩場なども含め、マッスを意識した立体的造型と歌舞伎が得意とする布地の自在な活用をからめていく。金井の談によれば、五十二場の転換を二十人の大道具方が行っている。歌舞伎のアナログの力にはやはり瞠目すべきものがあった。衣裳の桜井久美はパリ・オペラ座で学び、オペラ、バレエの舞台で数々の作品をつくってきた人で、スーパー歌舞伎以外でも二代目猿翁の演出によるリヒャルト・シュトラウスのオペラ『影のない女』にも加わっている。ブータンの文様などを取り入れた無国籍風の衣裳でありながら、質感や色彩でキャラクターを明瞭に区分けして鮮やかだった。宙乗りするシシ神の輝く衣裳がスーパー歌舞伎のルーツ『ヤマトタケル』(1986年初演)の白鳥をほうふつとさせ、金粉、木の葉の緑を思わせる紙吹雪が客席に舞った。

 

時蔵のエボシ御前に感じた「妹の力」

 演技陣では團子の颯爽たるアシタカがピカピカで、馬上の姿が実にりりしい。貴種流離譚の貴公子にうってつけだ。なかでも印象に残るのは時蔵で、2026年は正月から女形の大役、三姫に挑んで古典の高みを感じさせてきたが、こういう仇っぽい気丈な女をやらせても凜然として眼をひきつける。口跡がいいし、戦闘で腕を失いタタラ場をなくしても反骨精神たくましく生きていく後段のせりふがとりわけ印象深い。柳田国男の言葉を借りていえば「妹の力」がありありと感じられたのだ。もののけ姫の壱太郎は俊敏さがいい。ただ乙女の可憐さはもっと。

 梅原猛原作・脚本の『ヤマトタケル』からはじまったスーパー歌舞伎は3S、すなわちストーリー、スピード、スペクタクルを掲げる新しい歌舞伎だった。今日、アニメやゲームを題材にした歌舞伎や仮想現実のキャラクターと共演する歌舞伎など新趣向の舞台が盛んに上演されているが、その起点となったのが『ヤマトタケル』だ。不死鳥のような白鳥の宙乗りは一大ブームを引き起こしたし、第二作『リュウオー・龍王』は大人数の京劇俳優が出演する破天荒な日中合作だった。