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はじめに

 弱冠21歳の歌舞伎役者、八代目市川染五郎が、父、祖父も演じたハムレット役でストレートプレイ・デビューすると開幕前から話題になった『ハムレット』(作=ウィリアム・シェイクスピア/演出=デヴィッド・ルヴォー/翻訳=松岡和子/2026年5月9日~30日、日生劇場/6月5日~14日、SkyシアターMBS/6月20日~21日、名古屋文理大学文化フォーラム(稲沢市民会館))は、日本での活躍が記憶されるデヴィッド・ルヴォーの斬新な演出により、苦悩する若者の悲劇というより、国家間の権力闘争やジェンダー規範の逆転というテーマを含む意外性に満ちた政治劇になった。

 

悩まないハムレット―歌舞伎役者になるべきか、ならざるべきか

 舞台が始まる前から中央の大きなスクリーンパネルに、さざ波の映像が映し出されている。シェイクスピア原作の『ハムレット』(Hamlet, 1600)のモデルとなったデンマークのクロンボー城はバルト海に面した城で、水とは切っても切れない縁がある。ちなみに、1948年のローレンス・オリヴィエ主演の映画『ハムレット』では、ハムレット王子が海を見下ろす断崖絶壁の上で“To be, or not to be”の有名な台詞を語る。本公演では、この後も「水」のモチーフがスクリーン上に通奏低音のように形を変えて映し出される。

 第一幕第一場、父王の亡霊の出現はスクリーンの点滅映像とノイズで象徴的に表現され、仇のクローディアス王と一人二役で演じられることの多いハムレット先王は登場しない。これにより、ハムレットが対峙すべき父王の存在感が弱まることになる。

 素早く戴冠式の場面に変わると、ハムレットの母、ガートルード王妃(柚香光)が豪華な金色のドレスを身にまとい、ピアノを演奏して一同の称賛を浴びている。後述するが、「ピアノ」はこの劇の第二の重要なモチーフである。一方、クローディアス王(石黒賢)と宮廷人たちの服装は深紅で統一されている。ここで通常、観客の視線は舞台の片隅に一人佇む「黒い喪服姿」(“dressed in black”)のハムレットを探す。ところが、舞台上にハムレットはいない。そこへ、だるそうにサッカーボールを手でドリブルさせながら、黒いサングラスをかけ、全身黒づくめの服装のハムレット王子(市川染五郎)が、ふてくされた様子で現れる。ハムレットの心を象徴するであろう、この「ボール」も劇中に繰り返し現れる大切なモチーフである。後の場面で、オフィーリアがボールにそっと触れたり、ハムレットが唯一心を許す親友のホレイショーとボールをパスし合ったりすることになる。そう言えば、演出家ルヴォーは、2013年のブロードウェイ版『ロミオとジュリエット』においても、ロミオ役のオーランド・ブルームをバイクに乗って登場させるという、意外性のある登場の仕方をとっていた。義父であるクローディアスに、男女逆転で「できるかぎりお言葉に従いましょう、母上」(“I shall in all my best obey you, madam”)と呼びかけて、(第四幕第三場でハムレットは再びクローディアスに「さようなら、母上」(“Farewell, dear mother”)と呼びかける)嫌々ながらのやりとりを終える。そして一人になったハムレットは、並んだ椅子を蹴り散らし、身を投げ出してピアノをかき鳴らす。その上で、現代のティーンエージャーさながらのいらだちを示しながら、第一独白「ああ、堅い堅いこの体」(“O that this too too solid flesh”)を述べる。そこへ、ホレイショー、マーセラス、バナードーがやって来て、前夜のハムレット先王の出現を語り、一同は城壁に向かう。

 一方、汚れた宮廷人と対照的に、白い衣装に身を包んだレアティーズとオフィーリア(當真あみ)の兄妹は、道化役の父、ポローニアスと共に清らかな家族愛の一場を演じる。

 次いで、城壁に現れた先王の亡霊は、スクリーンの点滅、声、ノイズ、そして竿に付けられたはためく布で表され、実体はない。(第三幕第四場「王妃の居室の場」に登場する際も同様である。)それでもハムレットは復讐を誓い、佯狂(狂人のふり)を決意する。

 ここからの染五郎演じるハムレットには、迷いが見られない。お決まりの独白はあるものの、次々に策略を立て、早いテンポで復讐に突き進んでいくように見える。その理由は、彼の役作りにあるのだろう。翻訳家の松岡和子によって「生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題だ」と訳された第四独白(“To be, or not to be, that is the question”)を、彼は生まれながらに歌舞伎役者である自分に引き付けて解釈した、と制作発表記者会見で述べている。

 本来、ルネサンス期のイギリスで流行した「復讐悲劇」(Revenge Tragedy)の系譜に属する『ハムレット』において、主人公ハムレットは「仇を殺さずに我慢して生きるか(=to be)」、それとも「仇を殺して自分も死ぬか(=not to be)」の二者択一で思い悩む。しかし、高麗屋という歌舞伎の名門家系に生まれた染五郎には「歌舞伎役者になるか、ならないか」の選択肢は初めから存在せず、「歌舞伎役者として、どう生きたらいいか」を考えたと言う。そこから、「生きるか、死ぬか」で迷うのではなく、「生きたうえで、どういう決断をするべきなのか」を追求する新しいハムレット像が生まれたのである。

 このハムレットは思い悩まないばかりか、しばしば解釈されるような、亡き父王へのエディプス・コンプレックスも、母へのマザー・コンプレックスも感じられない。その原因は、先に述べたハムレット先王の現実感のなさや、父と母の混同にあるのかもしれない。そうして、ハムレットは旅回りの一座を使って首尾よくクローディアスの正体を暴くことを計画する。