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上田久美子は、自ら戯曲を著したスペクタクルリーディング『バイオーム』(生物群系の意味。演出=一色隆司、2022年、企画・制作・主催=梅田芸術劇場)でも、動植物と人間の意識を等価に扱った。物語を伝えるのは誰か、という問題提起もSPAC『ハムレット』に継承された。
©matron2023
ドレスに蔓の絡まるオフィーリア(宮城嶋遥加)は、複数のオフィーリアたちの本体のような存在。
SPAC秋のシーズン2025-2026 #2『ハムレット』
作=W・シェイクスピア
演出=上田久美子
2025年11月9日(日)~12月7日(日)の間の土日/静岡芸術劇場
©SPAC photo by K.Miura

第1章・オフィーリアの転生

 シェイクスピア作『ハムレット』(1600年)の序盤、デンマーク王子ハムレットは、父の死後に叔父クローディアスが母ガートルードと結婚して王位を継いだことを嘆く。やがて王子は父の亡霊に暗殺犯クローディアスへの仇討ちを命じられ、報復心を隠すため狂気を装う。ハムレットの第四独白「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。」(3幕1場、本稿における引用は河合祥一郎訳『新訳 ハムレット 増補改訂版』2024年、角川文庫)は、復讐に燃える情念と、亡霊の真贋を疑う理性の間で迷う苦悩をはらむ。自我をもつ近代人の葛藤が渦巻く悲劇を、上田久美子は人間中心の考え方とは違う角度で読み直し、自然から照射する方向で潤色・演出した。今作で上田が中心に据えた人物はオフィーリア。愛するハムレットに父ポローニアスを殺され、正気を失ったオフィーリアは、多分野の芸術の題材になった。抒情に富む作品群では、受動的な立場で早世する犠牲者が麗しく表現された。

 しかし、無垢な「恋ゆえの狂い女(め)」(1870年にランボーが書いた詩『オフェリー』の中原中也訳)の理想化は、人権平等が進む時勢に沿って鎮まる。シンガーソングライター、テイラー・スウィフトのヒット曲『オフィーリアの運命』(2025年、マックス・マーティン、シェルバックと共同作詞・作曲)では、ロマンティックな肖像画が閉塞状況の象徴とされる。ビデオクリップ冒頭でスウィフトはフリードリヒ・ハイザーの絵画『オフィーリア』(1900年、ドイツ・ヴィースバーデン博物館蔵)に描かれた白衣の女性のポーズで横たわっている。が、まもなく立ちあがり額縁の外に出て、オフィーリアの運命を逃れた喜びを歌い、カラフルな衣裳で踊って視聴者を鼓舞する。近年はオフィーリアを能動的な人物に変奏した作品が増えた。ジェレミー・トラフォードが書いた『ハムレット』の翻案小説『オフィーリア』(安達まみ訳、白水社、2001年)のヒロインは妊娠と流産を経験し、自分を襲った暴漢を殺す。歴史や政治と対峙するオフィーリアを描く演劇も発表されている。ハイナー・ミュラー作『ハムレットマシーン』(1977年)では、ギリシア悲劇の王女エレクトラと融合。スレイマン・アルバッサーム作『アル・ハムレット・サミット』(2002年)では、中東で自爆攻撃を行うテロリストと化す。このようにオフィーリアは転生を遂げるものの、いずれも人間の領域を大きく離れてはいない。ところが、上田は動植物など人以外の生命体としてオフィーリアをとらえ、ニコラ・ブリオー『包摂性の美学 資本新世のアート』(辻憲行訳、水声社、2021年)に通じる広い視野で古典を再生させた。年代も性別も違う俳優たちが、長い髪と白いドレスをつけて乱入してくる舞台は、SPAC-静岡県舞台芸術センター(芸術総監督=宮城聰)のスタッフ・キャストと続けたワークショップで芽吹いた。SPAC秋のシーズン2025-2026 #2『ハムレット』(演出上田久美子、アーティスティック・ディレクター=石神夏希)には11人のオフィーリア役が現れ、ほとんどが別の役も担う。本稿では上田に尋ねた演出の背景を第2章に記し、第3~6章で今作の特徴を考察していく。

ハムレット(山崎皓司)をはじめ登場人物は現代的にふるまい、若い観客にも親しみやすい。
©SPAC photo by K.Miura

 

第2章・自然から悲劇を再構成した理由

 最初に自然を解釈の核に置いた理由を訊いた。

シェイクスピアが戯曲を書いた頃は、自然を人間の生活から排除しきれていませんでした。ウジ虫など人間以外のものに関わる言葉からも、自然と人間が未分化な状態が伝わってきます。そして、ハムレットの考えの中には、人間は自然から一段階高みに立たなければいけない、という流れがあるんですね。当時の人々に比べて、今の私たちは自然から遠ざかり、夜も明るい状態で暮らしています。その差に着目して、『ハムレット』に書かれている観点で生きものの生死を考えてみたい、と思うようになりました。

 海外生活でヨーロッパの人々の習慣に触れるうちに、言葉やロゴス中心の展開に疑問を抱いたことも新解釈につながった、と上田は続ける。

西洋の人たちが如何にロゴスを重んじるか。それを実感すると文化の違いがひしひしと分かってきます。彼らは日本人よりもはるかに弁論を重視するので、言葉にしないと何も通じません。議論して論理的に相手を説得するのが素晴らしいことだから、多弁な人が信頼される傾向があります。何でも言葉にできるはず、といった概念が確立しているんです。でも、それだけを唯一の道とするのではなく、時には別のバランスが必要ではないか、と私は思いました。たとえば、黙って身体で考えていることも大切、といった感覚です。科学至上主義は文明の発展に役立ったけれども、ハムレットが悩んだ人間の欲望をどうするか、という問題は解決されていません。そして、論理と科学を信じすぎたために、人類は滅びる道に進むリスクも抱えてしまいました。

 オフィーリアが増殖する舞台は、論理や科学への信奉とは別の価値観に根差しているのだ。緑の葉が生えた蔓(つる)を白いドレスに絡ませたオフィーリア(宮城嶋遥加)は、自然と一体化した面影が濃い。

宮城嶋さんの役は戯曲に書かれたオフィーリアの本体みたいな面をもっています。この舞台ではあまり物言わぬ人物で、死んだ結果、多くのオフィーリアを誕生させた源のような立場です。複数のオフィーリアは、死後に細菌などによって分解されたオフィーリアのかけらたちが、他の生命体になったようなもの。オフィーリアの身体の一部、生命の一部だったものたちが、ハムレットの死後に物語を演じ直す今回の『ハムレット』は、全体が劇中劇として展開します。ハムレット役も、オフィーリアの記憶のかけらを持つものが演じる訳ですね。

 基盤になるオフィーリアのキャラクターは、どのように設定されているのだろう。

ひどい扱いを受けた、といった恨みは持たずオフィーリアは水に溶けるように亡くなりました。男性たちが重んじる正義や神をめぐる人間界の規範にも縛られないアナーキーなところがあり、支配のために作られたルールをぶち破ることができます。かつてはオフィーリアだった者が、自然そのものを代表するような非ロゴス的な存在になったのです。ハムレットがいろんなルールにとらわれ、正義や死を考えて言葉で全部を内省するのに対して、考えるための言葉を持たない存在ですね。

言葉を遺そうとするハムレットに、転生したオフィーリアが沈黙を促す。
©SPAC photo by K.Miura