「声なき声」の現在地――NODA・MAP『華氏マイナス320°』/内田洋一
見立てとしての手話
発掘した腕の骨は組み合わせると過去の生物の標本になり、振動すれば手話という手段をへて過去の記憶を伝えてくる。そういうことが舞台上では役者の身ぶりによって印象づけられる。たとえば、アンサンブルの腕がつらなる形で骨の連鎖が表されたりする。古代の記憶を骨の振動から読みとり、声なき声として発する身ぶり、それがこのドラマにおける手話なのだと観客は少しずつ飲みこんでいく。連想は野田秀樹にとって変わらぬ劇の推進力で、その羽を言葉遊びの音感から視覚的な見立てへと広げてきたけれど、この舞台ではさらに沈黙の力を手話によって取りこんでいる。手話という沈黙の声、それもまた音楽的な見立てといえるだろう。その現在地に異能の演劇人でありつづける野田秀樹の新たな到達点があった。
かつて井上ひさしは、野田秀樹のドラマトゥルギーに歌舞伎の技法として知られる「吹き寄せ」を見いだした。「連想の働きによって関係のありそうなものをなにからなにまでかき集めること」(新潮文庫『野獣降臨(のけものきたりて)』解説)がそれで、この舞台ではテンシ(天使)、ダテンシ(堕天使)、イテンシ(遺伝子)、ペテンシ(ペテン師)といった言葉遊びで吹き寄せを試みたものといえる。ファウスト、メフィスト、ヒミコ(ヒ巫女)と次々キャラクターが登場し、アイルランドのジャガイモ、クレオパトラの受精卵など思わせぶりなイメージも幻惑的で、役者はどんどん役を変換していく。観客はどうしても混乱するが、野田秀樹にとってのファルスは敬愛する坂口安吾の言葉を借りれば「最も微妙に、この人間の『観念』の中に踊りを踊る妖精である」(『FARCEに就て』)。およそ140分、偽神話の謎解きは筋というより、吹き寄せで塗り重ねられたイメージの増殖、観念の踊りによって進行する。観客が筋を追おうとすればするほど劇はその視線から逃げつづけ、謎めいた象徴の森で目眩に似た感覚をもたらす。近年、作によっては幾分わかりやすくもなっていた野田秀樹の演劇が原点の「わからないけど面白い」に回帰したことをどう受けとめるか。世の趨勢が効率重視、コスパ、タイパに傾くなか、即席のわかりやすさに抵抗を試みる演劇の姿勢をまずは舞台にみておこう。
更新される『ゼンダ城の虜 苔むす僕らが嬰児の夜』
発想の基礎にあっただろう『ゼンダ城の虜 苔むす僕らが嬰児の夜』はこんな話だった。アンソニー・ホープの小説からルドルフとフラビア姫の役名を借り、800人の少年の行方不明事件が中世のマルセイユと現代の東京を行き来する。赤頭巾少年が少年十字軍を率いてエルサレムに進軍するが、次第に脳を退化させ、刺されてしまう。少年たちは瀕死の赤頭巾を救うため人工呼吸の森と闘い、現代の手術室に入場する。不死を象徴する万年青(おもと)が自らは地獄に落ち、少年を救う決意を語ると赤頭巾は息を吹き返す。「めまいの都」を眼下におさめた赤頭巾は「少年はいつも動かない。世界ばかりが沈んでいくんだ」と叫ぶ。私は解散公演でこの作を二度観た。少年たちの「重力を笑いとばせ」という叫びが今もはっきりと耳に残っている。少年の時間のまま発達を止めてしまった魂を生かそうとする祈り、野田自身が演じる万年青が自己犠牲の精神を示したこの作は、夢の遊眠社の最後を飾るにふさわしい舞台だった。
生まれるか、生まれ得ないか。生きられるか、生き得ないか。今回の舞台で「天使病」なる謎の病は「15歳くらいまでしか生きられない」先天的な病とされ、同時に生命の根源にかかわる重要情報を宿すことが明かされていく。終盤に登場する天使病をわずらう瀕死の少女は、かの赤頭巾の転生として呼び返されたのではないだろうか。『華氏マイナス320°』は『ゼンダ城の虜 苔むす僕らが嬰児の夜』をアップデートした作とみなすことができるだろう。




