コンセプチュアルなダンスが問うこと――豊田ゆり佳『Organized Play』/宮下寛司
4.コンセプトと観客
観客は、ルールに対する想定によって各々が互いにダンスに関する想定を寄せて振る舞う様子を眺めるが、その想定の重なり合いによってこのゲームにおけるダンスが何であるかを離れた立場から導き出す。その意味で観客は起こっていることを俯瞰して観てダンスとは何であるかを決定できる立場にいられるかもしれない。しかしながら、観客もまた何がダンスであるかを予め知っているわけではなく、他の参加者と等しくコンセプチュアルな問いへと応答する立場に立たざるをえない。実際にフィールドにいるわけではない観客は、目の前の出来事を反省するだけでなく、どのような能動的役割を担うのか。
部活動の大会や興行といったスポーツ競技に観客がいることは、積極的に求められる。そして上演芸術は、観客をその構成上の定義に含んでいる。それゆえ、観客がいることはスポーツにも上演芸術に共通する要素である。もっとも、他の社会的領域においても観客がいることはある。ダンスも含めて上演が必要な上演芸術はその呈示される内容で特徴づけられるわけではないが、それでも観客がいる他の営みと何らかの方法で区別される必要があるだろう。上演芸術においては美的なものが呈示されることで、上演芸術以外の営みにおける観客のありかたから区別されうるだろう。しかしそれよりも根本的に必要なのは、観客のあり方がメンケのいう意味で美的なものになることである。『Organized Play』は、身体運動を美的なものに(=ダンス)するためにスポーツが用いられている。それと同時に観客のあり方を美的なものにするためにもそれを用いているといえる。ダンスを演劇化する作業である上演は、このように観客を美学化することだともいえるだろう。スポーツとダンスを巡る二重の問いは観客にも向けられる。
サッカーのようなスポーツ競技の観客は、卓越した能力を持つ選手たちのパフォーマンスに期待を託す。観客は、スポーツ選手たちに(自分たちにはできないような)鍛錬の受苦を引き受けさせ、試合という緊張状態において卓越した技能を発揮させるからだ。観客はアスリートに本来であれば自らが享受したい成功を託すのである。1)ここでの議論は、精神分析研究および文化学者のロバート・プファラーによる間受動性という概念をもとにしている。以下を参照。Pfaller, Robert: Die Illusionen der anderen. Über das Lustprinzip in der Kultur. Frankfurt am Main: Suhrkamp. 2002, このような託すことは任せることと異なり、結果を自らのことのように受け取ってしまう。観客が時として熱狂し時として横暴になるのはこのせいである。託すという行為によってスポーツ競技は、実際には自らの人生には直接的に影響を及ぼさないにもかかわらず、観客にとっての心理的な現実として現れる。このような現実は一見すると回りくどく非合理である。しかし託すことは集合的なコミュニケーションになりやすく、その結果としてある行為をめぐり個々人の集まりである観客の期待が集積することで文化が成り立つ。スポーツが文化足りえるのは、観客がアスリートに成功などを託すコミュニケ―ションが生じているからである。そして、上演芸術が文化足りえるのも、卓越した俳優術や白熱したダンスという技能の成就を観客が託すからである。

観客のあり方に差異を創り出す、すなわち寄生的な方法で異化することは、観客としてのこのような託すことのプロセスに差異を創り出すことで可能になる。それによって単なる感情移入と異なる観客経験が可能になるだろう。『Organized Play』は、成就すべきダンスを不在にすることで、観客の託す行為を中断させる。それによって目の前で起こっていることは観客から託される対象として成立しえない。その中断を契機に改めて観客足りうるためにダンスという対象をよりよく理解しようとして、コンセプチュアルな問いに対する答えを求めるのである。すなわち観客が観客足りうるための反省的思考は、ダンスであることとスポーツであることを峻別できる判断に基づくのではなく、自らのあり方を美的なものとして捉えなおすことによってのみ可能になる。それによってその状況全体が上演としてあり続けるために必要不可欠な観客を生み出すための能動性として認められるといえる。
このことはさらに、オンラインの同時配信という技術によってさらに明白にも複雑にもなる。『Organized Play』の上演はオンライン上で同時配信され、希望者はオンラインで観戦できる。さらにオンラインの観客はコメントを発信でき、そのコメントは実況や解説によって読み上げられ、フィールド上にフィードバックされる。また、スーパーチャットと呼ばれる寄付も可能である。その寄付金額に応じて、プレイヤーたちは試合を中断し、組体操に似たフォーメーションを組んでゴールへとボールを蹴りこむ。振り込まれた額に応じてそのフォーメーションは大掛かりになる。そして、このフォーメーションが組まれることによって、プレイは中断される。オンラインの観客は、プレイングに直接的にかつ露骨に介入することができ、ある種の能動性を獲得しているかのように見える。オンラインで視聴する観客は託すことで生じるプレイヤーとの距離をもはや抹消しさえする。しかし実際に行動し介入する観客が、自らの託すことそれ自体を異化し、美的なありかたに変容が生じているかは不明のままである。したがって極めて規範的に観客的でありながら、これまでと異なる能動性を獲得する観客をどのように名指すのかはいまだ分からない。そしてこのことは、現代のインターネットテクノロジーが発展した現代におけるユーザーの能動性が、これまでの社会・文化の主体と異なることを想起させる。この作品で示されたこの現代的な問いは、今後上演の責任を問う豊田の作品において応答されることを期待している。

※筆者は10月18日の公演にて解説者として参加しており、ここでの記述はその経験に基づく。
註
| 1. | ↑ | ここでの議論は、精神分析研究および文化学者のロバート・プファラーによる間受動性という概念をもとにしている。以下を参照。Pfaller, Robert: Die Illusionen der anderen. Über das Lustprinzip in der Kultur. Frankfurt am Main: Suhrkamp. 2002, |

