コンセプチュアルなダンスが問うこと――豊田ゆり佳『Organized Play』/宮下寛司
3.スポーツとダンスの境界
豊田の振付作品をコンセプチュアル・ダンスの系譜において捉えるならば、『Organized Play』は、サッカーというフォーマットを枠組みとして借りて、ダンスについてのコンセプトを呈示しているといえるだろう。しかしこれは単なるダンスの拡張ではない。上演において観客は目の前の出来事を、スポーツ競技をダンス「として」観ること、ダンスをスポーツ競技「として」観ることの二重性において経験するからだ。「ダンスとは何であるか」という答えようのないコンセプチュアルな問いかけは、「スポーツ競技とは何であり、そうではないものとしてダンスは何であるか」という方法で答えることになる。そして「スポーツ競技とは何であるか」という問いも、ダンスとの差異で考えることになる。この入れ子のような問いこそが、この作品で観客が実際の動く身体に対して経験することである。そして同時にこのような問いは、ダンスは自律した身体運動として純粋に定義されるわけでもないことをも示す。ダンスにおける身体運動は他の身体運動と異なり、美的であり、すなわちそれ自体に合目的的であるとしばしばいわれる。しかし実のところ美的であることは、芸術固有のあり方を示す状態ではない。美学者クリストフ・メンケが指摘するように、美的なものは、社会や文化などにおける規範的なものからの差異によってのみ現れる。1)Früchtl, Josef / Menke, Christoph / Rebentisch, Juliane: Ästhetische Freiheit: eine Auseinandersetzung. In: 31: Das Magazin des Instituts für Theorie. 18/19, 2012. S. 126 – 135, hier S. 127. 美的なものは他の規範的なものがあることを前提にしてそれに対して遅れて現れるがゆえに自律的ではない。むしろ美的なものは他の規範的なもの(あるいは規範として認められる現実)に対して寄生的に生じるといえる。そうであるならば、美的な運動としてのダンスは、様々な規範的な運動からの差異あるいはそれらへの寄生を通じてのみ現れる。『Organized Play』はサッカーという社会的営みへの寄生でもってダンスを生み出そうとしているといえる。しかし、それだけではなく、そのようなダンスの規範それ自体に対しても寄生的に振る舞うのであり、それゆえにコンセプチュアルたりうるのである。
それでは実際に『Organized Play』はどのような枠組みを持っているのか。若葉町ウォーフの一階部分ほぼ全面にサッカーと同じフィールドが展開し両端には小さなゴールが置かれている。6人のプレイヤーたちは2チームに分かれ、それぞれのチームカラーに彩られたユニフォームを着て、このフィールド上でサッカーと同じように身体を用いて(ボールに手で触れると、ハンドという反則に抵触する)ボールをゴールに入れて得点を競い合う。プレイヤーはボールを奪いゴールを決めなければならないが、試合時間中は常に踊り続けていなければならないというルールが与えられており、常に踊りながら実際にサッカーをプレイする。そして、審判は常にダンサーたちが踊っているか否かを判断する。プレイヤーは審判によって踊っていないとみなされれば、一定時間のプレイ禁止というペナルティを受ける。そして観客は壁沿いに並べられた椅子に座り、この試合を観戦する。さらに、そのフィールドを覗くことができる2階部分には、実況と解説がいる。その2人による試合の説明や評価を観客そしてプレイヤーはフィールド上で聞くことができる。

作・振付=豊田ゆり佳
2025年10月18日(土)・10月19日(日)/若葉町ウォーフ
撮影=澤寛
プロスポーツで観る試合の形式を模していることは明白であるが、重要なのは「踊り続けていなければならない」というルールである。スポーツ科学が示すように、サッカーにはプレイヤーとしてパフォーマンスを発揮するための最適化された身体技法があり、そこから生み出される身体運動がある。その技法があまりにも卓越していれば、その無駄のなさにその動きは観客たちに「踊っているようだ」と言わしめることもできるだろう。しかし、そのような最適化に資することのない身体運動を同時に示すことは非常に困難である。
そして、ここで課せられるダンスがどのようなものであるのかは明示されない。ルールに書いてもいなければ、振付家の豊田も明かしていない。それでもなお審判はプレイヤーたちの身体の動きをダンスかどうか判断しなければならない。したがって、このゲームにおいてダンスが何であるのかを知っていそうなのは審判だけである。しかしながら、審判はルールをプレイヤーに守らせるに過ぎず、その都度の判断は、審判の趣味判断というよりも、明示されないがどこかにあるはずのルールすなわち規範に則っているとみなせる。そのようなルールが明示されていなかったとしても、プレイヤーたちは、各々がダンスだと思う動きを自由に繰り出すことは必ずしも許されない。というのも、審判が持ちうるダンスについてのルールを想定して動き回るしかないからだ。解説者もまたこのルールを予め知っているわけではないが、試合の出来事に対して専門家としての妥当な解釈を付け加えられる。解説者は、生じている出来事に対して説明的な発言をするとみなされるからだ。ただしそれはその都度の状況を説明しているにすぎず、ルール全体すなわち規範を明らかにしているわけではない。
ダンサーの個々の動きは、目に見えないが想定されるダンスのルールを体現していると表明している。個々の表明において「そのダンサーにとってダンスは何であるか」のアイデアもまた呈示される。ゲームを進展させるという課題を解決するために、個々のダンサーの身体運動においてそのアイデアがその都度現れていく。どれかの動きがダンスの象徴になることはなく、断片的なアイデアとして並列されるのである。
註
| 1. | ↑ | Früchtl, Josef / Menke, Christoph / Rebentisch, Juliane: Ästhetische Freiheit: eine Auseinandersetzung. In: 31: Das Magazin des Instituts für Theorie. 18/19, 2012. S. 126 – 135, hier S. 127. |

