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 二幕は、その日の夜。スマホを、恐らくは妻の介入なしに対決をやり直したくて故意に忘れていったアンディが戻ってきている。フレッドに和解契約書を読ませるのだが、アンディとフレッドの記憶が食い違う。アンディの言うように、被害者は本当に嘘をつかないのか? これがドラマのひとつの焦点だろう。二人の追憶で、もう一人のピアノの生徒、やはり性被害にあったトミーのことが話題にのぼる。12歳のアンディは、ピアノ教師のフレッドから「君は特別だよ」と言われるのが嬉しかった。ならばトミーへの競争心、嫉妬心から、大人になるまでの30年ほどの間に、記憶の上書きをしたのではないだろうか。あるいはフレッドが年老いて、都合の悪いことは忘れてしまったのか……。性加害は大概は密室で起こる。当事者の証言以外に証拠は乏しい。だから被害者の証言を疑うことは二次加害になるとも言われる。違うと言われて、アンディの苛立ちは沸点に近づくが、どちらの記憶が正しいのか曖昧なうちに、グループホームの面々は、混乱から悲劇的な事件に直面する。

 この作品は、2018年、シカゴのステップンウルフ劇場で初演され、その後ロンドンとニューヨークでも上演された。性加害に対する刑罰の制度は日米では全く異なるが、日本でも、子どもを性被害から守るために日本版DBSが今年12月からスタートする。子どもへの性加害は唾棄すべきことであるのに変わりはないが、制度や社会状況の違いは、翻訳劇の受容にしばしば障壁となる。本作では、ジオは黒人であるために差別を受けることを執拗に批判し続け、フェリックスは、スペイン語で祈りの言葉を唱え続け、南米系であることを伺わせる。そうした人種のもつ社会的背景が示唆することを、日本の上演で伝えきることは難しい。ジオがしばしば引用する聖書の言葉も、多くの日本の観客にはあまりピンとこないだろう。

 しかしポウジュによる上演では、一川華の丁寧な翻訳に加え、人種への先入観が支配的にならないからこそ、法が万能ではなく、社会正義をかざすことの理不尽さがより前景に見えてきたように思う。もちろん、俳優たちが、それぞれにリアルな存在として舞台上にいたからなのは言うまでもない。とりわけディーは、初老に差し掛かっている元役者のゲイの黒人という設定だが、植本は表面的なステレオタイプに陥ることなく、シニカルな軽口のなかにも彼の過去と現在を繊細に滲み出させ、ドラマの展開の軸となっていた。

 ペドフィリアは断じて受け入れられない。ディーが少年と愛し合っていたと言っても、法廷はそれは「愛」ではなく犯罪だと断じる。社会的に抹殺されて制約のなかで暮らすしかないディーの思い出まで否定するのは残酷だが、それも許容してはならないのだろうか? 何が正しいのか。懲罰感情だけで、性犯罪への対処は十分ではないことは確かだ。問題の深さを、哀しみとともに反芻させられた舞台だった。

(2025年12月14日 下北沢 駅前劇場にて観劇)