報告②/BeSeToシンポジウム「演劇におけるポストヒューマン的転回」
2.3.ロボット俳優の出演とロボットの欠陥
演劇『千個の青』は劇団史上初めてロボット俳優を起用し、その試みが評価された。登場人物のコリーはブロッコリー色の身体を持つ身長145センチのロボットで、千個の単語を学習したことで様々な感覚と感情を覚えていく。このようなコリーの特徴を踏まえ、劇団ではLEDパネルを用いて緑色の目を造りスピーカーを内蔵したロボット・コリーを特注製作した。簡単な動きをプログラミングしたコリーは他の俳優たちとともに舞台に立った。実際、145センチの身長で舞台に現れたコリーは出演してまもなく落馬によって上・下半身が分離されたが、緑色の目をパチパチさせ、相手に向けて顔と手を自由に動かし、コンソールから入力した台詞を内蔵スピーカーから出力するなど、多方面で活躍していた。

だが、ロボットを初めて俳優として起用する試みということもあり、予想外の技術的な不備が生じてしまった。そのため、最初の計画を変更せざるを得ず、コリー役を演じる別の俳優が一緒に出演し、コリーの感情を表す台詞と長いモノローグを述べることになった。この変更により、同じキャラクターを演じる人間とロボット俳優が舞台上に共存する状況を生み出し、相互に協力しあう多種間の密接な関係を具現化するという予期せぬ結果をもたらした。さらに、落馬で壊れたコリーの身体が俳優によって上・下半身に分離され舞台上に置かれた後、俳優自身も同じポーズでその側に横たわるシーンがあるが、そのシーンは負傷したロボットの身体を観る者に共感覚的に感じさせた。
開幕の直前、演劇『千個の青』はロボット本体の欠陥が見つかり開幕を二週間ほど延期せざるを得なくなった。テクニカルリハーサルの途中でロボットの電源が何度も落ちてしまうトラブルが起こり、トラブルの原因を調べるうちにロボットの回路を一通り再点検する必要が生じてしまった。ロボットの再点検とテストを経て、結局本番は予定より十日遅れたが無事に幕を開けた。本番の直前に起きたこのアクシデントにおいては、ロボットという機械の欠陥の発生による技術の限界が突きつけられたが、同時に多層的な議論を生み出す結果ともなった。その結果として、ロボットがエラーのない完璧な機械というイメージは崩れ、その技術も不完全性と予測不可能性を孕む物質性に属していることが明らかになった。また、ロボットの欠陥が観客にとってコリーへの一層の関心を寄せるきっかけにつながるというアイロニックな状況を引き起こした。ロボットは完璧な機械ではなく、いつでも故障する恐れのある、ケアを要する存在だと気づき、観客はより人間的な存在として感じたと考えられる。この事象は劇中で壊れて廃棄が決まっていたヒューマノイドロボット・コリーの状況とも重なりメタ演劇的な側面を生み出し、コリーというキャラクターおよびロボットへ抱く観客の愛情と憐れみの気持ちがより深まるきっかけとなった。実際に毎回のカーテンコールでは緑色の目をパチパチさせ両手を広げて舞台に現れるコリーに最も大きな拍手と歓声が沸き起こった。その一方で、二週間に渡るロボットの故障と修理の過程を経て、先端技術だとしても人間の継続的な管理とケアなしではその運用が難しいという現状が明らかになった。これによってロボットや機械が人間の代わりになるという一方的な見方ではなく、そのテクノロジーと人間が相互依存関係にあると語る作品のテーマを現実に立脚して実証することもできた。
2.4.非人間の死と倫理
演劇『千個の青』とミュージカル『メイビー、ハッピーエンディング』はいずれも死にゆく存在としての非人間が登場し、それぞれヒューマノイドとヘルパーロボットの死亡(物理的な破損や機能停止)によるラストを迎える。だが、彼らの死や消滅は単なる消耗/廃棄ではなく、倫理や認識の問題に属する出来事として再定義される。
『千個の青』のラストシーンにおいて、コリーはもう自分の重さに耐えられない競走馬・トゥデイのために自ら落馬を選び修理ができないほどに破損する。このコリーの死は単なる機能停止ではなく、異なる存在へのケア、および倫理的責任が全うされたという意味を帯びることとなる。それにより、非人間のヒューマノイドは道徳的主体としての地位を獲得する。『メイビー、ハッピーエンディング』でも非人間的な存在が消滅していくが、ヘルパーロボットのオリバーとクレアはすでに決まっていた機能停止/廃棄を関係終結として受け入れる。それは強制終了というより合意の上で決まった別れに近いといえる。
コリーは死の瞬間が近づいても当然苦痛を感じることはないが、最後にトゥデイ、ヨンジェ、ウネ、ボギョンなどの名前を頭の中で思い浮かべる。その際、コリーは自分が習得した千個の単語だけでは彼らのことを十分に言い表せないという限界を自覚する。言葉では定義できない他者の固有性を表すための言語が足りないという自覚、その乏しさを意識したことこそが思考の転換である。コリーにとって死は認知機能の停止を意味するとともに、他者の名前(トゥデイ・ヨンジェ・ウネ・ボギョン)を想起させ、記憶の場を開示する転換点となる。また、ヨンジェとその家族が経験した死とヒューマノイドのコリーの死が重なり、「死」が持つ有限性を共有する人間と非人間の関係性に光を当てる役割を果たす。
両作品はいずれも非人間的存在の死を単なる機能停止や機械の廃棄として捉えるのではなく、人間と同じ実存的・倫理的な問題として捉え、舞台上にポストヒューマン的な感性を示している。



