Print Friendly, PDF & Email

◆半導体がビニ本のビニールに代わる時

 劇中には朝顔の他に三人の腹話術師(鳥丸、水丸、糸丸)が登場する。引田の連れの河合は、鳥丸の人形の名が「明治憲法」だと聞いて、「そうか、てめえらは、政治を動かせない分、政治的な人形を操ってんのか」と迫る。続きの会話で三人は、「腹話術師になろうと決めたときの、あの時点」という事を殊更に言うのだが、それは現実の「政治」を動かすことを断念しても、腹話術師になることで可能性を見出せた「時点」を指している。逆に「巷にビニ本があふれたとき」、彼らは「ただの腹話術師」であることに甘んじなければならなくなったというのだが、ビニ本がもたらした「ワイザツさと透明なもののバランスが崩れないと」「一生このままで生きるんだ」といって、3人は「虚空を見てボンヤリする」。

©唐組/平早勉

 つまり「ビニ本」の登場がターニングポイントなのであり、その変化をさらに覆す「動乱」がいつ起こるのかと問い詰められて、「先端技術の半導体が」「ビニ本のビニールに代わる時!」と鳥丸に宣言させている唐の慧眼には舌を巻く。日本にインターネットが誕生したのは1984年。『ビニールの城』上演のちょうど1年前である。そして一般に普及するのはおよそ10年後。その1985年にあって作者・唐十郎は、ビニ本が廃れて違法画像がネット上に氾濫する現在までも透かし見ていたかのような台詞を残しているのである。
 巷にビニ本があふれたとき、時代は消費社会へとシフトした。そして半導体がもたらした静かな「動乱」はその流れをさらに加速させ、「ワイザツさ」と「透明なもの」との関係を根こそぎに変えてしまった。もはや「ただの腹話術師」に甘んじるといった精神性自体が成り立たない、漠たる地平に人々は投げ出されてしまったのである。半導体による「動乱」が、「あの時点」に戻してくれるという腹話術師たちのわずかな望みは、現実のものとはならなかった。
 36年前に唐が投げかけた「ビニ本」から「半導体」への「革命」の問いかけは、今回の上演によって答えを得た。それは登場人物たちの思いを裏切るものであったが、時代に呼応して内側から現在を確かにつかみ取っていく戯曲のポテンシャルに感嘆せずにはいられない。

©唐組/平早勉

 

◆思いのたけをあなたに告げられないもどかしさ

 時代との関係でいえばコロナ騒ぎで見慣れたアクリル板を思わせる、ビニールを張った背丈ほどのつい立てが劇中には登場する。これは初演時からのものであり、その拡大されたビニ本の膜はモモと朝顔の心の隔たりを可視化している。「あたしはいつもそうです。あなたとお会いしてからも、二人の間にはビニールがあって、なにか言えない、思いのたけをあなたに告げられないと、いつも気が急いておりました」とモモは言う。
 他人に思いを伝えようとする誠意や伝えきれないもどかしさの苦渋。そこにいくつものドラマが生まれた人間的な逡巡は、インターネットのヴァーチャルな空間が現実を覆う現在ではもう成り立たなくなっている。コロナ禍のアクリル板はそうした変化を可視化するかのように、対話を遮りながら現実に林立している。そして新たに生まれたものは、すべてが伝わるが何も伝わらない、頼りなく救いのないディスコミュニケーションの砂漠である。そこでは「助けて」というモモの叫びは、ある者にはより切実なものとして、またある者には意味不明な記号として漂い流れていくしかない。「生身なんていやなんです」といい、モモの苦しみを一切理解しようとしなかった朝顔が、単なる薄情というよりは、むしろ次の世代の感性を先取りしていたことは、今の時代の上演だからこそ見えてきたものである。時宜を得て「三者と一体をめぐる愛憎の劇」から脱皮した『ビニールの城』がそこにある。

◆切り捨てられる思いと恥さらし

 『ビニールの城』について緑魔子は次のように語っている(「無器用に頑固に 緑魔子インタヴュー」『ビニールの城』沖積舎、昭和62年5月)

女として生きてきて、これまでいろんな思いを切り捨ててきた。そういう「思い」は、隠蔽され、抑えられ、彼方に捨てられて消えていって、自分自身でももう無いものと思って生きてきた気がするんですよね。(中略)愛そのものにしても、男の人が考える愛に合わせてそのなかで生きるっていうか・・・・・・。そこに苛立ちがある。これまで蓮ちゃんと暮らしてきても感じたことね。その苛立ちを、たとえば裏切りとかエキセントリックな行動で晴らしてきたみたい。それで、『ビニールの城』を読んだときに、あれほどまでに男を求めるモモの中に、さっき言った沢山の、彼方に捨てられた思いとか苛立ちとかを感じたの。

 「僕に何の用があるのか、一言で言って下さい」とせき立てられながら、モモはようやく思いの丈を朝顔に告げる。「これから、ずっと居て下さい」。しかしそれは「体は自由でいいですから、面影だけでも、あたしと一緒に暮らして下さい」というとても控えめなものだった。切り捨てられた「思い」はここにもある。そしてふたりの会話は、「モモ 迷惑なひとり言はやめてください」「朝顔 関係ない話はやめてください」とどこまでもすれ違っていくのだが、ついには捨てられ消えていったはずの苛立ちが亡霊のように舞い戻り、モモに激しく反撃させる。
 モモは朝顔がビニ本の封を切れなかった理由を、「動物の匂いが出てくるからなんじゃないですか」「それが、あんたは耐えられないのよ」といって、空気銃をつい立てのビニールに向ける。自分でビニールを撃ち破って外に出ようとするモモに、平然と「空気銃なんか恐くないです。皮一枚のめりこむだけだし」といってのける朝顔は、「ずっといるなんてのが、どだい無理なんだ」というのだが、モモの返事はこうである。

モモ できます。その服をぬがせ。

朝顔 ――。

モモ ブリーフもとらせて、ベッド代わりのあのテーブルに横にさせれば、ここはヌードのポラロイド部屋。あたしも間もなく寄りそって、好きなポーズでシャッターを切らせる。

朝顔 そんなことを考えていたんですかっ。

モモ もっとよ。できた写真はビニールに包まれる。誰が見たって、あんたとあたしは、むつまじく、袋の中に!
もう逃れられないでしょう。それで、ずっといることになるでしょう。
いや?
朝ちゃん。
こんなずっといるやり方、嫌いですか。

 こういわれて朝顔は「見損なわんで下さい」と答えるが、「見損なったあたしに声かけて、自分だけは見損ないたくないって言うの?」というモモに、朝顔は返す言葉がない。さらには「この腹話術でしか生きられない僕に裸の恥さらしをやれってんですか?」と追い打ちをかける朝顔に、反論すらせず「ずっといたい」「死んでも、写真だけ残りたいんです」と最後の思いを告げるモモの、抑圧された思いと言葉にならない悲しみは深い。

©唐組/平早勉

 男の論理に合わせるために心をなくし体を捧げ、時には「裸の恥さらし」をしてまでも生きなければならなかった女たちの掻き消された思いや苛立ちを、戯曲はやさしく救い上げている。モモの「やり方」がいくらエキセントリックに見えようと、それは男が女に押しつけてきた「論理」の映し鏡である。だからこそモモと朝顔はいつまでも平行線をたどり続けるが、ついに救われなかったのはモモではなく朝顔だった。

◆思想の塔は沈み、ビニールの城は・・・

 かつて人形の「民衆」に向かって意気揚々と演説した朝顔は、「深い水底から突き出た宮殿の塔の上」に立っていた。その「思想」に輝く塔のてっぺんは今、神屋バーの水に浸った床にある。しかし朝顔にはそれが見えないどころか、「ずいぶん、馬鹿げたことを言って皆さんを、てんてこまいさせたことが恥ずかしくも思います」といって、モモが探し出してきた夕顔を抱き上げてただうれしそうにしている。
 そして半導体の「革命」は、物も女も男も子どももすべて同じマナイタの上に並べ、体も心も丸裸にしてしまうような容赦ないものだった。モモの「助けて」がたやすく拒絶されてしまったように、そこには苦しみや苛立がたとえ「亡霊」としてさえ帰って来る場所もない。
 初演の戯曲では、カウンターに置いてあった空気銃を朝顔が摑んで虚空に向け、「どこなんだ、僕が訪ねる、その城は?」という声に、「夕ちゃん人形が(ゆっくり、口あける)/流れ落ちるビニ本」で終わっている。今回は最後の屋体崩しでモモが、塔に見立てたビニールの膜一杯の光に守られるようにして、彼方に去っていったのが印象的であった。その清らかな美しさは、福原という土地の過去から現在にわたる無数の女たちの魂の共振を思わせる。紅テントの杭は依り代となって、苦しみに迷える女たちの魂を慰撫した。死者との交流と鎮魂。演劇本来の役割がそこにある。現代と共鳴しながら同時に太古へつながっていく演劇という器の計り知れない大きさを実感させる戯曲と今回の上演であった。

©唐組/平早勉